をもって犯人に苦痛を与えたならば、被害者を満足せしめるに足るであろう。今、国法未だ存せずして盗人が被害者の私力制裁に委《まか》せらるる場合を想像せよ。被害者がもし盗人を現場で捕え、または追掛けて取押えたならば、被害者は怒に委せて盗人を乱打し、遂にこれを殺戮《さつりく》するか、または奴隷として虐使するのが、殊に原始時代にあっては普通の人情であろう。また盗人が、例えば盗品の衣類を着用して通行する際に被害者に発見せられた場合には、同じく後日の発覚であっても、他の場合よりは被害者の憤怒が遙かに烈しいであろう。これに反して、犯人が後日になりて逮捕せられたならば、被害者の感情は普通の場合では既に大いに和らいでいることであるから、あるいは叱責の上謝罪金を出さしめる位で済むかも知れぬ。故に原始的刑法の盗罪に対する公権力制裁においては、この点を斟酌《しんしゃく》して、相当の区別を設けるのでなくては、もって私力的制裁に代わるに足りないのである。被害者の血の冷熱を量刑の尺度とするローマ十二表法の一見奇異なる規定も、むしろ法律進化の過程における当然の現象というべきである。
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八九 古代の平和条約
現代の平和条約には、往々両国の国境に中立地帯を設けるという条款《じょうかん》があって、将来の衝突を防ぐ用をなしているが、古代の平和条約にも、同趣意にして形式を異にしているもののあることが、フィリモアの著書に見えている。即ちアテネ、ペルシャ間に結ばれ、デモステネスやプルタークによって「有名なる」(Famous)という形容詞を冠《かぶ》らしめられた重要な一平和条約において、アテネ人は、ペルシア人から、騎馬一日程以内のギリシア沿海へ立ち入らないという保証を取って、将来の衝突を避けようとしたとのことである。
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九○ 家界と領海(ランス・ショットとカノン・ショット)
国法の原始状態は現今の国際法に似ている点があるようである。その主要な類似点を挙げてみれば、(一)立法者なくして慣例または約束に依って法律関係が定まること、(二)その法律関係は家もしくは氏族の如き団体相互間の関係なること、(三)その団体間に争議あるときは、自力制裁なる族戦(feud)に依ってこれを決するか、(四)または他の団体などの仲裁に依ってその解決を試みることなどである。しかしこれら根本論は暫く措《お》き、原始的国法に「家界」なる制度があって、それが国際法の領海制度に酷似しているのは、甚だ面白い現象である。
今日の欧洲諸国の物権法においては、不動産所有権の主たる目的物は土地であって、家屋はむしろ土地の構成分子と見る観念も存するのであるが、古代にあっては、この関係は全く反対であったようである。古代農業の未だ発達せざる時に当っては、土地の所有権は重きを置かれず、庭園などの所有地も、他人の自由通行に委せられていたが、ただ家屋のみは不可侵界であって、
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「各人の家は彼の城なり」(Every man's house is his castle.)
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という法諺《ほうげん》も存したほどである。朝鮮では、最近まで家の所有権はあって土地の所有権はなかったとのことであるが、我国の「屋敷」なる語も、土地をもって家屋の附属物とする観念に基づくものかとも思われる。要するに、国法の原始状態において、国際法の領土に比すべきものは、土地ではなくして家屋であったのである。
しかしながら、家屋の不可侵を保全するには、その周囲一帯の地域の安寧が必要である。即ち家の周囲の土地については、家の所有主は各特別の利害関係を有する。古代において、家の周囲一定の距離を限界して、これをその家の「家界」(Precinct)とする習俗が存したのはそのためであって、イギリス古法のツーン(Tun[#「u」の上に「^」がつく])、アイルランド古法(ブレホン法)のマイギン(Maighin)などがこれである。そして、この家界内の安寧は、特別に保護せられるのであって、例えば英国のエセルレッド王(King Aethelred)の法は、国王のツーン内において人を殺す者は五十シルリングの賠償金、伯爵《アール》のツーン内において人を殺す者は十二シルリングの賠償金を払うべし云々とある。即ちこの家界なるものは、国際法の領海と酷似しているではないか。
そして、ここに最も面白いのは、この家界の測定法、則ち家の周囲|幾何《いくばく》の距離までを家界とするかの定め方である。アイルランドのブレホンは、投槍距離(Lance−shot)をもって家界測定の基準とした。即ち尖頭より石突に至るまでの長さ十二フィスト(即ち我国でいわば十二束)の槍を、家の戸口より投げ、その到達点を基準として劃した圏内をもって家界の単位とし、身分に応じて二ランス・ショット、三ランス・ショットという如く、次第にその乗数を増すのであって、国王の宮殿の家界は六十四ランス・ショットであったという。国際法の領海の測定法を弾着距離(Canon−shot)を基準としておったのと、全く同一観念であることは、深く説明を要せぬところであって、両々対比し来って、無限の興趣を覚えるのである。
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九一 断食居催促
アイルランドの古法センカス・モア(Senchus Mor)に拠れば、債務不履行の場合には、債権者は催告(Notice)に次いで財産の差押(Distress)を行うことが許されておった。しかし債務者が高位の人であるか、または目上の人である場合には、直ちにその家に踏み込んで差押を行うのは、余り穏かならぬ次第でもあり、また実行し難い事情もあろう。かくの如き場合に対して、センカス・モアは断食居催促(Fasting upon him)なる奇法を設けている。即ち、債権者は債務者の門前に座を占めて居催促をなし、債務が弁済されるか、担保が提供されるまでは、一塊の麺麭《パン》、一杯の水をも口にしないで、餓死を待つのである。
現今の債務者には、この位の事では驚かない連中が多い。死にたければ勝手に死ねという調子で、平気なものであろう。また催促する方でも、腹が減ればやがて立ち去るのであろうが、古代の人間は中々真面目である。センカス・モアにも、断食居催促に対して担保を供せざる者は、神人共にこれを容れずと記し、僧侶(Druid)も、債権者を餓死せしめたる者は、死後天の冥罰を蒙るべきものなりと説き、人民も一般にかく信じておったのである。故にこの催促法は頗る効力のあったものと思われる。
しかるに殆んど同一の風習が、東洋にも存在していたのは、甚だ面白い現象である。インドの古法(Vyavahara Mayuka)にも、戸口の見張(Watching at the door)という催促法が載せてあるが、マヌ(Manu)その他の法典にはダールナ(Sitting dharna)なる弁済督促法が載せてある。これも同じく断食居催促の法であって、普通人が行っても効力があるが、特に婆羅門僧(Brahmin)がこれを行うと、一層の効果を奏するのであった。というのは、婆羅門《ばらもん》僧は、人も知る如く、インド民族の最上階級であって、その身体は神聖不可侵である。たとい間接にもせよ、婆羅門僧の死に原因を与えた者は、贖罪の途なき大罪人であって、永劫浮かむ瀬なきものと信ぜられている。故に死をもって債務者を威嚇するには、この上もない適任者である。その上都合の好いことには、彼らは難行苦行を積んでいるから、催促の武器たる断食などは御手の物である。彼らは毒薬または短刀などの自殺道具を携帯して、債務者の門前に静座し、何日間でも平気で断食する。もし家人がこれを追い退けようと試み、またはその封鎖を破って外出しようとするときには、直ちに毒薬または短刀を擬して、自殺をもって脅かす。自殺されては堪らぬから、家人は食物を買いに出ることも出来ず、全く封鎖の中に陥ってしまうのである。dharnaとは拘束(arrest)という意味で、Sitting dharnaとは、即ち居催促によって封鎖の状態に陥し入れることをいうのである。ここにおいて、債務者と僧侶との間に、断食の根気競べが始まるのであるが、この点において、天下婆羅門僧に敵するものはない。如何に頑強な債務者も、竟《つい》には閉口して、弁済または担保の提供によって、封鎖を解いてもらうより外はないのである。かく婆羅門僧の居催促は、偉大の効力があるところから、後には普通人が僧侶に依頼して催促をしてもらうことが始まり、遂に婆羅門僧は現今の執達吏のような事を常業とするに至った。インドが英領となり、裁判所も設けらるるに及んで、当局者は大いにこの蛮習の撲滅に苦心し、インド刑法にも禁止の明文を載せたが、多年の因襲は恐しいもので、十九世紀の半ば過ぎまでも、なお全くその迹を絶つには至らなかったということである。
しかるにまた、ペルシアでは、現今でも断食居催促の法が行われているということである。しかもその方法が頗る面白い。債権者は、先ず債務者の門前数尺の地に麦を蒔き、その中央にドッカと座り込む。これ即ちこの麦が成熟して食えるようになるまでは、断食して居催促するぞという、大決心を示す意味である。
以上の例は、いずれも法律の保護が不充分なる時代には、自己の権利を伸張せんがために、如何なる非常手段にまで出でねばならぬかということを示しているものである。吾人は実に平和穏便に自己の権利を主張し得られる聖代の民であることを感謝せざるを得ないではないか。
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九二 地位と収入
英のサグデン(Sir Edward Sugden)は、素《も》と卑賤に身を起し、後《の》ち大法官に挙げられ、貴族となって、ロード・セント・レオナルド(Lord St. Leonald)と号した人である。サグデンは学生時代に「売主買主の法律」(Laws of Vendors and Purchasers)という書を著わして名声を博し、大法官となった後ちも、数多の名判例を残し、英国法律家の尊崇する大法律家の一人であるが、この人、以前弁護士であった時分には、毎年一万五千|磅《ポンド》、即ち我が十五万円の収入があったが、その後名声大いに加わり、挙げられて判事となるに及んで、その歳入はかえって約三分の一に減じたということである。
地位と収入とが必ずしも相伴わぬことは、古今その揆《き》を一にするが、米の経済学者エリー(Richard T. Ely)の説明に曰く、「俸給の額は、勤労の価値によって決せられずして、地位職掌に必要なる費用によって決定せらるる傾向がある。裁判官の受くるところが、その弁護士時代の収入の三分の一または四分の一に過ぎないことがあるのは、この理由に基づくのである。」
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九三 盗賊ならざる宣誓
アングロ・サクソン王エドワード(Edward the Confesser)の法律に拠れば、人十二歳に達したるときは、十人組(Frankpledge)の面前にて、「余は盗賊にあらず、また盗賊と一味せざるべし」という宣誓をせねばならぬことであった。即ち社会の秩序は、当初はかくの如き人民の相互担保によって維持せられ、後に進んで国家によって担保せらるるに至ったものである。
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九四 違約に対する刑事責任
現今の法理においては、違約はその性質上民事責任を生ずべきものとしておって、各国の法律、その点において規定を一にしているが、独りかの有名なるマコーレー卿(Macaulay)の立案に係る印度刑法においては、旅客運送契約の違約者に対して、刑事責任を負わしめている。これは大いに理由のあることと思われる。
印度において旅客運搬を業としているのは、土人の轎舁《かごか》きであるが、彼らは我国の雲助にも劣った、真に裸一貫の輩であるから、民事責任を負うて賠償するなどという事は、到底出来ない相談である。またその旅客の通行する地方には、森林沙漠などの荒寥
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