は、雲の原までもさがし出し、其身の事は申に及ばず、一門までも成敗すべしと有て、すなはち籠の戸をひらき、数百の科人を免《ゆる》し出して放されけり。科人どもは手をあはせ涕《なみだ》を流し、かかる御めぐみこそ有がたけれとて、おもひ/\に逃行けるが、火しづまりて後、約束のごとく皆下谷にあつまりけり。帯刀大きに喜び、汝等まことに義あり、たとひ重罪なればとて、義を守るものをば、いかでか殺すべきやとて、此おもむきを御家老がたへ申上て、科人をゆるし給ひけり。
[#ここで字下げ終わり]
この語は、唐の太宗が貞観六年|親《みずか》ら罪人を訊問し、罪死に当る大辟囚《だいへきしゅう》らを憐愍《れんびん》して、翌年の秋刑を行う時、(支那にては秋季に限りて刑を執行す、故に裁判官を秋官ともいう、)自ら帰り来って死に就くべきことを約束させた上、三百九十人の囚人を縦《はな》って家に帰らしめた。ところが、その約束の期日に一人も残らず帰って来たので、太宗は彼らが義を守ることの篤いのを感歎して、ことごとくこれを放免してやったという「資治通鑑《しじつがん》」に載せてある記事に酷似しているけれども、今仔細に両者を比較するときは、大いにその趣を異にしていることが分るのである。
石出帯刀の処分は、変事に方《あた》り人情に基づいて行った必要なる処置であって、釈放しても帰って来る理由があってしたのであるけれども、太宗が大辟囚を縦ったのは、常の場合において、しかも彼らが帰って来べき理由もないのに、何の必要もない奇行を敢えてしたのであって、畢竟《ひっきょう》死罪に当る極悪人に求むるに、君子もなお難しとするところをもってしたのである。故に欧陽修がその「縦囚論《しょうしゅうろん》」において、この行為を是非している如く、いわゆる英雄名を求め世を欺くの一実例を与えたに過ぎないのである。これら三百九十人の大辟囚が、ことごとく皆その期を違《たが》えずして死刑を受けるために再び帰って来たということが、もし歴史の偽でないならば、内密に赦免を約束して置いて帰り来らしめたものであると推測せられぬでもない。しかるに石出帯刀は、前にも述べたように、啻《ただ》に急変の場合に恩恵を与えたというばかりでなく、帰って来る者のためには、身に替えて赦を乞うべく、もしまた約を守らない者あるにおいては、たとい「雲の原までも」逃げ隠れるとも、必ず尋ね出して厳罰を加えるという決意を示したことであるから、囚人らが必ず帰還すべき理由があったのであって、その大部分が帰って来ることは、当初より予期せられたところであろう。彼らの中の或者が、その郷里に逃げ隠れようとしたが、郷人らのために告発せられたということも、「むさしあぶみ」に載せている。即ち石出帯刀のこの処置は、欧陽修のいわゆる「天下の常法となすべき」ものであって、決して「異を立ててもって高しとなす」ものではなかったのである。
現行の監獄法第二十二条にも、天災地変に際して、他に護送避難の遑《いとま》がない時は、一時囚人を解放し、二十四時間内に更《あらた》めて監獄または警察署に出頭させるという規則があって、石出流の応急処分が今日においても是認せられている。
[#改ページ]
七九 大儒の擬律
正徳の頃、武州川越領内駒林村の百姓甚五兵衛とその忰《せがれ》四郎兵衛の両人が、甚五兵衛の娘「むす」の夫なる伊兵衛という者を、彼がその当時住居していた江戸から、宿元なる同村へ一寸帰って来た際に、これを絞殺して河中へ投じた事件があった。娘は勿論それが何人《なんぴと》の所為であるかを知らずに、これを官に訴えたが、だんだん取調の結果、自分の実父および実兄が下手人であった事が明白になったのである。ここにおいて、子がその父兄の罪を告発して、そのために父兄が死刑に処せられるという事態になって来た。しかるに、川越の領主秋元但馬守は、「闘訟律」には[#「」内の「一二」は返り点]「告二祖父母父母一者絞」という本文もあるが、この場合この女子を、尊長を告発したという罪に当てることの可否を決定し兼ねるというので、遂に幕府にその処置を伺い出たのである。
そこで、幕府では、当時の儒官林大学頭信篤(鳳岡)および新井筑後守(白石)に命じて擬律せしめることになった。林大学頭は、前記「闘訟律」の本文「告二祖父母父母一者絞」[#「」内の「一二」は返り点]を引用し、また「左伝」にある、
[#ここから2字下げ]
鄭《てい》の君がその臣|蔡仲《さいちゅう》の専横を憎んで、蔡仲の聟《むこ》に命じて彼を殺害させようとした時に、蔡仲の娘がそれと知って、もしこの事を父に告げると、夫が父のために殺されるし、もしまた告げないと父が夫のために殺されるということを思い悩んだ末、終に母に向って、父と夫と何れが重親なるかと問うたところが、母がそれに答えて、「人尽夫也、父一而已」といった。
[#ここで字下げ終わり]
という記事と、更にまた「論語」子路篇の、
[#ここから2字下げ、「レ一二」は返り点]
葉公語二孔子一曰、吾党有二直レ躬者一、其父攘レ羊而子証レ之、孔子曰、吾党直者異レ於レ是、父為レ子隠、子為レ父隠、直在二其中一矣。
[#ここで字下げ終わり]
という本文などを立論の根拠として、父の悪事を訴えた者は死罪に処すべきであるという断案を下した。
しかるに、白石はこれに対して、長文の意見書を幕府に上《たてまつ》り、かくのごとき場合には、父の悪行を知ってこれを訴えてもなお罪がないものであるということを委細に論じた。その意見書は「決獄考」という書に載せているが、その論旨は概略次の如きものである。
[#ここから2字下げ]
君父夫の三綱は、人倫の常においては何れも尊きものであって、その間に差などはないものである。しかしながら、人倫の変に当り、その間に軽重を設けてその一に適従する必要を生じた場合には、一の標準を発見してこれに拠らなければならない。本件は父と夫との中果して何れが重親であって、随ってこれに従うべきものであるかという問題を決定しようとするものであるが、余は今シナの喪服制を標準として、これを定めようと思うのである。即ち「儀礼《ぎらい》」に、女子が既に許嫁してなお未だその室にいる間に父が死亡した時には斬衰《ザンサイ》三年(斬衰は五種の喪服中最高等の喪服であって、その縫方など万事粗略で、布も下等の品を用うるのである、即ち悲哀の最大なることを示している)、既に嫁した後に父が死亡した時には、斉衰《シサイ》不杖期に服し(斉衰は第二等喪服であって、斬衰の場合よりは布の地も良く、縫方なども較々《やや》丁寧になっており、即ち悲哀の較々小なることを示しているのである。不杖期というのは、悲しみがあまり大でないから、杖を要しないことをいうので、喪の期間は一年である)、そして妻は夫のためには斬衰三年の喪に服するのであるからして、既に嫁した後は、夫の方が父よりも重いのである。即ち女子は父の家にいる間は父を天とし、既に嫁した後ちは夫を天とするものであって、父が自分の夫を殺害するが如き人倫の変に際しては、たとい父に背いても夫には背くべきものではないのである。いわんや、この場合の如く、下手人の何人なるかを知らずに告発し、後ちに至って自分の父を告発しているような結果になった如きに至っては、罪なきは勿論のことで、たとい自分の父が下手人なることを知っていて告訴したのであっても、罪ありとすべきでないのである。その女《むすめ》が、告発後自殺するならば、夫に対しては義を守り、父兄に対しては孝悌の道を尽す者であるということが出来るけれども、これは備《そなわ》らんことを人に責めるものであって、普通人には無理な註文である。いわんや林大学頭が引証した「左伝」の語は、左氏が不義を戒める趣意で書いたものであって、決して論拠となすことは出来ない。
[#ここで字下げ終わり]
白石はなおこの他にも広く古典および支那の歴史などを引用して詳論するところがあったので、遂にその意見が採用せられることとなって、秋元但馬守は、甚五兵衛および四郎兵衛を下手人として死刑に処し、訴人「むす」は尼になるように宣告した。その判決文は左の通りである。
[#28字下げ]甚五兵衛
[#28字下げ]四郎兵衛
[#ここから2字下げ、「一二」は返り点]
右両人之者、聟《むこ》伊兵衛を父子申合しめ殺候由致二白状一候に付、解死人《げしにん》として死罪申付者也。
[#天から28字下げて]む す
[#ここから2字下げ、「一二」は返り点]
右は夫伊兵衛川中に死し有之を見出し、訴出候処、父甚五兵衛兄四郎兵衛両人にて殺候儀致二露顕一、親兄共に解死人として死罪に罷成《まかりなり》候、夫殺され親兄死罪に罷成候上は、其身も尼に致させ、鎌倉松ヶ岡東慶寺へ差遣候。
卯十月二十七日[#「19字下げて地より3字上げで]秋元但馬守
[#ここで字下げ終わり]
今日より見れば、本件の「むす」なる婦人の罪なきことは、固より明々白々の事であって、鳳岡・白石の二大儒がかくの如くその脳漿《のうしょう》を絞って論戦するほどのことではないようであるが、当時支那道徳が形式上甚だしく尊重せられておったことと、且つは徳川幕府が総べて主人その他尊長に対する罪科を特に重大視してこれを厳罰する方針であったために、かくの如き論戦を惹起したものであろう。
[#改ページ]
八○ 罪の語義
「ツミ」なる語の意義については、本居宣長|大人《うし》の「大祓詞後釈」を始めとして、古来種々の解釈が試みられているが、伊勢貞丈の「安斎随筆」には「つめる」にて即ち「膚を摘み痛むるより起る詞なるべし」という意見が見えている。
これは随分と変った解釈だ。継母が子供をいじめるのは素《もと》より罪深いことではあるが。
[#改ページ]
八一 食人を無罪とす
ベーコンは、難船の場合に、二人の遭難者が、たった一人だけを支えることの出来る板子に取縋《とりすが》って、その一人が他の一人を突き落したがために、一人は助かり、他の一人は溺死したときに、その生残った者は殺人罪に問わるべきものであるか否やについて、有名な問題を提供した。そしてベーコンは、かくの如き二人併存する能わざる場合には、自保の法則が行われるから、罪とならぬと言うておる。たしかグローチゥスは、仮に飢餓に差迫った一人があって、パン屋の店先に通りかかったとき、ふとした出来心から店頭のパンを攫《つか》み取り、これを食うて僅に餓死を免れたとしたところが、それは盗罪にはならぬと論じておったように記憶する。
インドの古聖法は、餓死に瀕した場合には、たとい他人を殺してその肉を食うとも、それは自保のためである故、決して罪とはならぬとしてある。マヌー法典第十巻の中に、
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
第百四条 生命の危険に迫りたる者は、何人より食を受くるも、罪に因りて汚されざること、あたかも大空が泥土のために汚されざるが如し。
第百五条 アジガルタ(Ajigarta)はその子を殺してこれを食わんことを企てしも、彼は餓死を免れんとしたるに過ぎざりしをもって、これがために罪に因りて汚さるることなかりき。
[#ここで字下げ終わり]
と記してある。これに依って観ると、当時は宗教、法律共に自保のためには他人を殺してこれを食うことを公許しておったものと思われる。
[#改ページ]
八二 掠奪刑
原人中には、往々刑罰として罪人の財産を強奪することを許すことがある。例えばフィージー島の土人、ニュー・ジーランド人中には、タブー(禁諱)を犯す者あるときは、その刑罰として、隣人がその犯人の財産をば何なりとも奪い去ることを許している。この刑罰を“Muru”という。故にタブーに触れる者があるときは、近隣の者共は寄集って刑の宣告を待ち、いよいよ裁判の言渡があって、有罪を決すると、我れ勝ちにその罪人の家に駆けつけて、手当り次第に家財や家畜などを奪い去るのである。
かくの如き刑罰は、言わば罪人の財産権剥奪に等しいものであって、財産に関しては
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