ではなかった。氏はその目的の容易に達し難きを観るや、諸方に意見書を贈って法典立案の委嘱を需《もと》めた。一八一四年、書をペンシルバニヤ州の知事に送り、無報酬にて法典立案の業に従事したいということを請うたが容れられなかった。しかるに氏はなお進んで合衆国の諸州の知事に書を送って、自ら法典立案の任に当らんことを望む旨を述べ、更に英人ジェレミー・ベンサムより合衆国人民に贈る書と題する一冊子を公刊して、法典編纂の必要を力説し、いやしくも愛国の士は、挙《こぞ》ってこの事業を賛成しなければならないことを痛論し、且つその書の末尾に、「余は暫《しばら》くここに親愛なる諸君と訣別す。諸君もし他日余にこの事業を委託することあらば、余は諸君の嘱望に負《そむ》かざる忠僕たるを誤らざるべし、ジェレミー・ベンサム」と記した。けれども合衆国諸州の人民および政府は、一もベンサムの勧請に応じなかったのである。
一八二二年、ベンサムは齢既に七十五の高齢に達したが、その畢生《ひっせい》の力を法典編纂の業に尽そうと欲する熱望は毫《ごう》も屈することなく、老いてますます熾《さか》んなる有様であった。そこで、遂に一国に対して法典編纂を提議することを止めて、更に、
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「改進主義を抱持する総べての国民に対する法典編纂の提議」(Codification Proposal addressed by Jeremy Bentham to All Nations professing Liberal Opinion.)
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と題する一書を著して、文明諸国に対《むか》って法典編纂を勧告し、且つ外国人を法典草案の起草者となすの利を説いて、「外国人立案の法典は公平なり、何となれば内国人の如く党派もしくは種族などに関する偏見なければなり。外国人立案の法典は精完なり、何となれば衆目の検鑿《けんさく》甚だ厳なればなり。ただ外国人はその国情に明らかならず、その民俗に通ぜざるの弊ありといえども、法典の組織は各国大抵その基礎を同じうするものなるをもって、敢てこれをもって欠点となすに足らず。いわんやその細則に至りては、これを内国の法律家に謀《はか》るを得るをや」と言い、終りに臨んで、博《ひろ》くその委嘱に応ずべき由を公言した。
氏はまた書を欧洲諸国の立法議院に寄せて、法典立案の必要を説き、且つその委託を勧請したけれども、ただギリシア革命政府、ポルトガルなどの一、二国が氏の意見を諮詢したのみに止《とど》まって、法典立案の事に至っては、几案寂然《きあんせきぜん》、遂に一紙の聘托《へいたく》をも得ずして、その生涯を終ってしまったのである。
ベンサムの博学宏才をもって心を法典編纂に委《ゆだ》ぬること五十有余年、当時彼の著書は既に各国語に翻訳せられ、彼の学説は既に一世を風靡《ふうび》し、雷名|轟々《ごうごう》、天下何人といえども彼の名を知らぬ者はなかったのである。
しかも、この碩学にしてその素志の天下に容れられなかったのは何故であるか。これ他なし。法典の編纂は一国立法上の大事業なるが故に、これを外国人に委託するは、その国法律家の大いに愧ずるところであって、且つ国民的自重心を傷つくること甚だ大であるからである。明治二十三年の第一回帝国議会において、商法実施延期問題が貴族院の議に上ったとき、我輩は同院で延期改修論を主張したが、上に述べた如き例を引いて、国民行為の典範たる諸法典を外国人に作ってもらうのは国の恥であると述べたのは、幾分か議員を動かしたように見えた。ベンサムにはこれらの国民的感情は少しも了解することが出来なんだのである。しかも彼が再三再四各国政府に書を寄せ、また各国人民に勧告し、その度ごとに失敗して毫もその志を屈せず、ますます老豪の精神を振うて世界の人民に対《むか》ってその抱懐するところを訴え、遂にこれを容れられざるに至って、なおその原因を悟らなかったのは、これけだしベンサム氏の気宇濶大、世界を家とし、人類を友とし、かつて国民的感情などの存することを知らなかったのに由るものである。故に彼は、外国人をして法典を立案せしめることは、これを内国人に委託するよりは優っているとの論に附加して、各国の立法議会においても外国人を議員たらしむるの利あるを説き、例えばイスパニャの如き国においては、英、仏、露、伊、葡諸国の人民各一二名をその国会議員に加えることが有利であると論じている(Bentham's Works IV, p. 563.[#「IV」はローマ数字の4])。もってベンサムの眼中に国境なきことを推知することが出来る。人あるいはこの論を読んでベンサムの迂《う》を嗤《わら》う者もあらん。しかれども、ベンサムのベンサムたる所以はけだしこの点にありと謂わねばならぬ。
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七三 命賭けの発案権
ギリシアのシャロンダスがドリアン法を制定した時に発した命令は頗る奇抜である。曰く、「この法典の改修または新法の制定を発議せんと欲する者は、頸に一条の縄を懸けて議会に臨むべし。もしその議案にして否決せられたるときは、発議者は直ちにその縄をもって絞殺の刑に処せらるべきものなり」と。
今の議会には、まさかかくの如き奇法を布《し》く訳にも行くまいが、議員たるものは、宜しく頸に絞索《こうさく》を懸けた位の気持になって、真面目に立法参与の大任を完《まった》くしてもらいたいものである。
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七四 酩酊者の責任
ギリシア七聖の一人に、ピッタコス(Pittakos)という人があった。「機を知れ」という名言を吐いたので有名な人であるが、暴君メランクロス(Melanchros)の虐政から市民を救ったために、衆に推されて心ならずも国政を料理する身となった。元来栄達に志す人ではなかったから、位に即《つ》いた後、種々の善政を布き、良法を設けて、市民の信頼に報い了《お》わり、直ちに位を棄《す》つること弊履《へいり》の如くであった。
このピッタコスの定めた法律の中に「酔うて人を殴《う》つ者の罰は、醒《さ》めて人を殴つ者の罰に倍すべし」という規則がある(Hooker's Ecclesiastical Polity.)。これは甚だ面白い考えで、酔者は醒者よりも国家に取って危険な人民である。飲酒という行為は未だ罪にならぬけれども、もし悪結果を生じたならば、その悪結果より反致して、飲酒を責任の目的とすることが出来る。また飲酒と殴打とは、行為の聯絡があるから、二種の罰を蒙らすことが出来る。これ予防主義から見ても、懲戒主義から見ても、鑑戒主義から見ても、大いに理由のあることである。ただし古風なる自由意思論者はあるいはこれを非とするであろう。
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七五 蛙児必ずしも蛙ならず
テンタルデン卿は、素《も》と理髪師の子であったが、法律を学んでバリストルとなり、後には高等裁判所の判事総長に進み、貴族にも列せられたほどの人であって、その判決には、判例として有名なものが多いのは、英法を学ぶ者のよく知るところである。
未だバリストルであった頃、彼は或事件について法廷で相手の弁護士と論争した。論熱し語激する余り、相手は終に人身攻撃の卑劣手段に出でた。
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「汝今こそ鉄面皮に大言を吐けども、元来理髪師の子ではないか。」
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罵《ののし》り得たりと彼は肩を聳《そびや》かしたが、忽ち静かなる反問を請けた。
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「汝は如何。」
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昂然として答えて曰く、
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「余は法律家の子なり。」
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テンタルデンは冷かに笑った。
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「汝は法律家の子なりしが故に法律家となり得たのであるか。幸福なることよ。もし汝をして吾輩の如く理髪師の子ならしめば、今頃は客の頤《あご》に石鹸を塗っているところであったろうに。」
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七六 法廷の掏摸
サー・トマス・ムーア(Sir Thomas Moore)がロンドン府裁判所判事長の職にあった時、部下の一判事に、甚だ片意地な男があった。窃盗|掏摸《すり》などの事件を断ずる場合に、彼は加害者を詰責せずして、かえって被害者を叱り付け、この災害は汝自身の不注意から自ら招いたものであるから、今更誰を怨むべきようもないと罵って、自ら得たりとしておった。ムーア判事長は大いにこれを片腹痛きことに思い、折もあらば懲らしめてくれようと待ち構えておった。
或時、有名な掏摸の名人が捕われたことがあった。裁判の前日、ムーアは密《ひそか》に彼に会って密計を授けた。明くれば裁判の当日である。かの判事は、例の如く先ず大喝一声被害者を叱り飛ばし、さて犯人の訊問に移った。犯人は神妙気に述べていう、「かくなる上は何事をか包みましょう。さりながら、ここに一つ何とあっても公言致し難い秘密がございます。これだけは何とぞ閣下の御耳に就いて申し述べさせて頂きたい」と、頻《しきり》に願うので、判事はこの危険なる被告を身近く召し寄せて、何事をか聴き取った。
かくてこの日の裁判も終ったので、裁判官は一同休憩室に入って、四方八方《よもやま》の話に耽《ふけ》った。ムーアは突然例の判事に向って、「目下何々慈善事業のために義金募集の挙があって、我輩も既に寸志を投じたが、君にも御志があるならば御取次致そう」と言い出した。判事は早速承諾の意を表し、「それでは何分願います」と、ポケットに手を差し入れたが、忽ち周章の色を顕《あらわ》して、頻にあちこち掻《か》き捜している。ムーアは、さもこそと打笑って、「君の懐中物は先ほどの耳打の際に既に被告の手に渡りました。これ君の不注意が自ら招いた禍であって、今更誰を咎《とが》めん途もありません」と言うたので、一座は且つ驚き且つ笑った。さすがの判事も茫然自失、一言をも出さなかったが、それより以後は、決して再び被害者を叱らなかったとかいうことである。
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七七 盗人の慧眼
法官サー・ジョン・シルベスター(Sir John Sylbester)が、或時窃盗事件の審問をした。その審問中、法官の手はしばしば動いて、ポケットを探っている。覓《もと》むる物あって得ざるの様子であった。かくてこの裁判は、証拠不充分放免という宣告に終り、被告は直ちに自由の身となった。
さてその日の事務を終えて、シルベスターが家に帰ると、家人迎えて言う、「今日は、時計を御忘れになったので、如何ばかりか御不便な事であろうと御噂をしておりましたところへ、裁判所から使の者を取りに遣わされました故、その者に渡しました。」
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七八 石出帯刀の縦囚
明暦三年、江戸に未曾有の大火があり、殆ど全都を灰燼に帰したことがあった。この火事は、正月十八日に始って二十日まで焼け続け、焼死者無慮十万二千百余人、そしてこれら不幸な人々の内、死骸の引取人がない者を、武蔵下総の境なる牛島という処に、大きさ六十間四方の坑を掘って埋葬し、芝の増上寺をしてここに一宇の寺院を建立せしめ、名付けて諸宗山無縁寺|回向院《えこういん》といった。これが即ち現今の回向院である。この大火の際に、当時の有名なる典獄|石出帯刀《いしでたてわき》が囚人を解放した事実は、万治四年出版の「むさしあぶみ」に次のように見えている。
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爰《ここ》に籠屋《ろうや》の奉行をば石出帯刀と申す。しきりに猛火もえきたり、すでに籠屋に近付しかば、帯刀すなはち科人《とがにん》どもに申さるるは、なんぢら今はやき殺されん事うたがひなし。まことにふびんの事なり。爰にて殺さんこともむざんなれば、しばらくゆるしはなつべし。足にまかせていづかたへも逃れ行き、ずいぶん命をたすかり、火も鎮りたらば、一人も残らず下谷《したや》のれんけいじへ来るべし。此義理をたがへず参りたらば、わが身に替へてもなんぢらが命を申たすくべし。若又此約束を違へて参らざる者
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