rust.
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起し得て妙なりと手を拍って自ら喜び、更に二の句を次ごうと試みたが、どうしても出ない。出ないはずである。起句が余りに荘厳であるから、如何なる名句をもってこれに次ぐも、到底竜頭蛇尾たるを免れないのである。千思万考、推敲《すいこう》百遍、竟《つい》に一辞をも見出す能わずしてその筆を投じてしまった。
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 六八 筆記せざる聴講生


 ブラックストーン(Blackstone)が英国空前の大法律家と称せられてその名声|嘖々《さくさく》たりし当時の事であるが、その講筵《こうえん》をオックスフォールド大学に開いた時、聴講の学生は千をもって数え、満堂|立錐《りっすい》の地なく、崇仰の感に打たれたる学生は、滔々として説き来り説き去る師の講演を、片言隻語も漏らさじと、筆を飛ばしておった。この時聴衆の中に一人の年若き学生がいた。手を拱《こまね》き、頭を垂れ、眼を閉じて睡《ねむ》れるが如く、遂にこの名講義の一言半句をも筆記せずして講堂を辞し去った。その友人がこれを怪しんで試にこれに問うて見ると、かの青年は次の如くに対《こた》えた。
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余は先生の講義が正しいかどうか考えておった。何の暇あってこれを筆記することが出来ようか。
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 「蛇は寸にしてその気を現わす」、「考えておった」の一言は、ベンサムの曠世の碩学《せきがく》たる未来を語ったものである。他日Fragment on Governmentを著し、ブラックストーンの陳腐説を打破して英国の法理学を一新し、出藍《しゅつらん》の誉を後世に残したベンサムは、実にこの筆記せざる聴講生その人であった。
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 六九 何人にも知られざる或人


 ベンサムが「フラグメント・オン・ガヴァーンメント」の第一版を出した時、故《ことさ》らに匿名を用いて出版した。しかるに、今まで法律家の金科玉条と仰がれたブラックストーンの学説を縦横無尽に駁撃し、万世不易の真理とまで信ぜられていた自然法主義および天賦人権説に対《むか》って反対の第一矢を放ったる耳新しき実利主義と、この卓抜なる思想にふさわしい流麗雄渾なる行文とは、忽《たちまち》にして世人の視線を聚《あつ》め、未だ読まざるものはもって恥となし、一度読みたるものは嘖々《さくさく》その美を嘆賞し、洛陽の紙価これがために貴しという盛況を呈した。そしてこの書の名声と倶《とも》に高まったものは、そもそもこの無名の論客は果して何人《なんぴと》であるかという疑問の声であった。好奇心深き世人は、恣《ほしいまま》に当代の諸名士を捉え来って、この書の著者に擬したので、バーク(Edmond Burke)、ダンニング(Dunning)、マンスフィールド卿(Lord mansfield)、カムデン卿(Lord Camden)等の諸大家は、代る代るにこの空しき光栄を担《にな》わしめられたのであった。
 かくの如き成功に接して、最も歓喜した者は、ベンサムの父であった。子に叱られた事までも吹聴して歩きたいのは親心の常であるから、当然我が愛子の頭を飾るべき桂冠が、あらぬ方へのみ落ちようとするもどかしさに、とても堪え切れず、我子との固き約束をも打忘れて、遂に自ら発行|書肆《しょし》を訪ねて、第二版には必ずジェレミー・ベンサム著と題してくれよと頼んだ。書肆はなかなか応じない。この書がかく売行の多いのは全く匿名の故である。余り高名ならざる御子息の名を載せたが最後、忽ち人気が落ち声価の減ずるは眼《ま》のあたりの事と、すげなくもこれを拒絶したのであった。しかるに、この事が忽ち世上に伝わると、如何なる大家の説かと思えば、そのような青二才の著作であったかと、世人の失望は一方ならず、書肆の予言は見事に的中して、第二版の準備も終に中止となってしまった。
 ベンサムは後に自らこの事を記して、「我父約を守らざりしがために、この書の著者は何人にも知られざる或人」(Somebody unknown to nobody)なりと知れ渡るや否や、書肆の門前は忽ち雀羅《じゃくら》を張れりといっている。けだし「年少何の罪ぞ、白髪何の尊ぞ」の感慨禁じ難きものがあったであろう。さるにても、世人書を買わずして名を買う者の多きことよ。
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 七〇 ベンサムの功績


 天はベンサムに幸いして、これに仮すに八十四歳の高寿をもってしたのであるが、彼はこの長年月を最も有益に費して、この天寵を空しくはしなかった。彼の哲学の主眼は、有名なる「最大数の最大幸福」なる実利主義であったが、彼自身が実にこの主義の忠僕であった。その著書大小六十三巻、氏の歿後、友人ボーリング博士は、手簡および小伝とともにこれを一部に編纂して刊行した。今、世に行わるる「ベンサム全集」は即ちこれである。
 ベンサムが始めて実利主義を唱えて法律改善を説いた時には、旧慣古制に執着深き英国人士は、皆その論の奇抜大胆なのに喫驚《きっきょう》せざるを得なかった。曰く過激論、曰く腐儒の空論、曰く捕風握雲の妄説、これらは皆彼の説の上に注ぎかけられた嘲罵の声であった。しかしながら彼は毫も屈しなかった。直言※[#「※」は「言+黨」、第4水準2−88−84、256−10]議《ちょくげんとうぎ》、諱《い》まず憚《はばか》らず、時には国王の逆鱗《げきりん》に触れるほどの危きをも冒し、ますます筆鋒を鋭くして、死に至るまで実利主義のために進路の荊棘《けいきょく》を攘《はら》った。由来、学者の所説は常に社会の進歩に先だって趨《はし》るものである。彼の法律制度改正案は無慮幾百であったが、彼が八十五歳の長寿を保ったに係らず、その生前に行われたものは比較的少数であった。しかしながら、学者の説はそのままにて直ちに実行されるものは少ないのである。必ずや、時務に通じたる実際家が社会の需要に応じてその理論を実行するのを待たねばならぬ。ベンサムにはその薫陶を受けたる政治家にピット、マッキントッシ、ブローム、ロミリー等の諸名士があって、彼の遺志を継ぎ、彼の所論を実現すべき人を欠かなかったために、その死後未だ数十年を出でずして、その案の実行せられ、その論の是認せられたものは、実に無数であった。ミルがこの事を評して次の如く言っておる。
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“It was not Bentham, by his own writings, it was Bentham through the minds. and pens which those writings fed, through the men in more direct contact with the world, into whom his spirit passed.”――Mill, Dissertations and Discussions.
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 法制上においては、刑法の改正、獄制の改良、流刑の廃止、訴訟税の廃止、負債者禁錮の廃止、救貧院の設置、郵便税の減少、郵便為替の設定、地方裁判所の設立、議員選挙法の改正、公訴官の設置、出産結婚および死亡登記法、海員登記法、海上法の制定、利息制限法の廃止、証拠法の大改良などがあり、法理上においては、国際法(International Law)なる名称の創始、主法・助法(Substantive and Adjective Law)の区別、動権事実(Dispositive Facts)の類別など、枚挙するに遑《いとま》がない。なおまた彼の所論中、まさに行われんとしつつあるものは、刑法成典の編纂であって、その未だ全く行わるべき運命に到着しないものは、法典編纂論を始めとして、なお多々存している。そのうち、将来に実行を見るものも、決して少なくはないことであろう。
 ベンサム死して既に半世紀、余威|殷々《いんいん》、今に至って漸《ようや》く熾《さか》んである。偉人は死すとも死せず。我輩はベンサムにおいて法律界の大偉人を見る。ミルの讃評に曰く、ベンサムは「混沌たる法学を承けて整然たる法学を遺せり」と。“He found the philosophy of law a chaos, and left it a science.”
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 七一 合意の不成立


 ベンサムは、その晩年に至って、世上の交際を避け、クウヰ[#「ヰ」は小書き]ーン・スコワヤ・プレースの住居を隠遁舎(Hermitage)と名づけて、心静かに一身を学理の研究に委ねた。或時エヂウォルスがこの隠遁舎に訪ねて来て、エヂウォルスはベンサム君に面会を希望すと紙片に書き付けて取次の者に渡したが、やがて引返して来た取次の者の、同じく一片の紙を差出したのを受取って見れば、こは如何に、ベンサムはエヂウォルス君に面会を希望せず。
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 七二 ベンサムの法典編纂提議


 ジェレミー・ベンサムは近世における法典編纂論の始祖とも称すべき人であるが、氏が欧米諸国の政府または国民に書を送って、その法典編纂の委嘱または諮詢《しじゅん》を勧請した事は、法律史上、ことに氏の伝記中において、異彩を放つ事実の一つに属するといわなければならぬ。
 一八一四年五月、ベンサムは当時ロシアにおいて法典編纂の挙ある由を聞いて、一書をアレキサンドル帝に上《たてまつ》って、自ら法典立案の任に当りたいという事を請うた。その書面は頗《すこぶ》る長文であって、ここにその全文を引用することは出来ないが、今その首尾を訳載して、氏の熱心の一斑を示すこととしよう。
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外臣ジェレミー・ベンサム謹んで書を皇帝陛下に上り、立法事業に関して、陛下に奏請するところあらんとす。臣年既に六十六歳、その中五十有余年は潜心して専ら法制事業を攻究せり。今や齢|已《すで》に高し。もし陛下の統治し給う大帝国の立法事業改良のために、臣の残躯を用い、臣をして敢えて法典編纂のために微力を尽すを得しめ給わば、臣が畢生《ひっせい》の望はこれを充たすになお余りありというべし。(中略)
今や戦闘の妖雲は全欧を蔽えり。陛下もし臣に賜うに数行の詔勅をもってし給わば、臣は直ちに治平の最大事業に着手すべし。陛下もし幸いにこの大事業を臣に命じ給わば、その重任を負うの栄誉と、これに伴う満足とは、これ陛下が臣に賜うところの無二の賞典なり。臣|豈《あ》に敢えて他に求むるところあらんや。(下略)
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 しかるに翌年の四月アレキサンドル帝はオーストリヤのヴィーン市より手簡をベンサムに贈ってその厚意を謝し、且つ「朕はさきに任じたる法典編纂委員に対して、もし疑義あらばこれを先生の高識に質すべき事を命ずべし云々」と言い、併せてその厚意を謝する記念として高価なる指輪を贈与せられた。ベンサムは再び長文の書を上《たてまつ》って、いやしくも金銭上の価格を有する恩賜は自分の受くるを欲せぬところであるといってこれを返戻し、且つ委員らは必ず氏の意見を聴くことを屑《いさぎよ》しとせざるが故に、帝の命令はただ氏に対する礼遇たるに止まるべきことを予言し、更にまた詳細に法典編纂の主義手続などを説明して、再びその任に当りたいということを奏請したけれども、遂に露帝の容るるところとならずして止んでしまった。
 これより先き、一八一一年、ベンサムは書を合衆国大統領マヂソンに贈って、合衆国法典編纂の必要を論じ、且つ自ら進んでその立案の任に当りたいということを請うたが、マヂソン氏はその後ち五年を経て返書を送り、「方今欧洲において法典編纂の事業に適任なるは先生をもって第一とすと言えるロールド・ブローム(Lord Brougham)の説は余の悦んで同意するところである。しかしながら、奈何《いかん》せん合衆国においては、法典編纂の挙に対する種々の故障があって、今や容易にこれを実行すべき見込がない」と言ってこれを謝絶するに至った。けれどもベンサムの法典編纂に対する熱心は、固より一回の蹉跌《さてつ》をもって冷却するもの
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