右の手には長き物を持って授くるが如き形をなし、左の手には円形の物を持っている。ジェレミヤス(Johannes Jeremias)の説に拠れば、シャマシュがその右手に持っているのは石筆で、智の表象であり、左手に持っている円形の物は時または年の表象であるといい、またグリムは、右手の長き物は笏《しゃく》で、左手の円き物は輪であると言うておる。日の神の前にはハムムラビ王が立って礼拝をしている。その右手を挙げているのは、天を指すので、これはバビロンの祈祷の礼貌であるということである。この全図の意味についても、種々の説があるが、フランスの探検隊に属して、始めてこの法律を翻訳したシェイル氏などは、これは日の神がハムムラビ王に法を授けている図であると言うておる。アメリカの翻訳者ハーパー氏もこの説を採っている。しかるにグリムはこの説を非なりとして言うには、ハムムラビの法律の中に王が日の神から法を授かった事は書いてない。後文中には「天地の大法官なるシャマシュの命に従い、朕は正義の光輝を国中に普及せしめんことを冀《こいねが》う」とあるけれども、前文中には「マルヅック神は民を統《す》べ国を救わんがために朕を降せり、依って朕は国中に法を立て正義を行い、もって人民の幸福を増進せり」とあるから、日の神がこの法律を授けたとするのは間違っている。この柱は始めシッパールの日の神の神殿の前にあったから、この神を崇敬する図を彫ったもので、もしマルヅック神殿の前にあったならば、必ずやマルヅックを崇敬する像を刻してあったであろうと論じている。デリッチは、シャマシュはマルヅックの神性の一面であるから、この文に依って日の神が法を授けたという事を否認することは出来ぬと言うておる。グリムはこれを駁して、シャマシュがマルヅックの神性の一面であるということは、新バビロンで一神教の傾きを生じた時代の思想であって、それは遙か後世に生じたものであると言うておる。我輩門外漢にはその孰《いず》れが是《ぜ》であるかを正確に判断することは出来ぬが、ただこの法が神授の権に依って立てられ、この法の効力の基礎が神意にあるということだけは明らかである。
五 石柱法の内容
この石柱法の内容は主として私法、刑法および官吏法に関するものであって、直接に訴訟法、裁判所法などに関するものは極めて少ないのは、他の原始的法律と異なっている。原始的
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