の円柱の石質はデオライトという極めて堅い石であって、小藤教授の言に依れば、この石は日本では「緑石」といい、筑波山などは、これから出来ているということである。
 石柱の両面に楔形文字が彫り付けてある。表面は二十一欄に分ち、一欄毎に六十五行乃至七十五行の文を刻し、裏面は二十八欄に分ち、一欄毎に九十五行乃至百行の文を刻し、両面において総計三千余行の楔状文字が刻せられているのである。探検隊がこの碑文を読んでみると、これこそかの有名なるバビロン王ハムムラビの法律であって、総計二百八十二条の法規が彫り附けてあるが、そのうち表面の五欄にあった第六十六条乃至第九十九条は、後に鑿除《さくじょ》せられたように見えて、現今読み得べきものは二百四十八条だけである。その後ちシェイル氏は前にいうたブリチシ・ミュージアムにある粘土記録の破片からその削り去られた法文中の三箇条を見出してこれを填捕《てんぽ》した。この三十四箇条を削り取ったのは何故であるかは確《しか》と分らぬが、多分後にバビロニアを征服したエラム王のスートルーク・ナクフンテ(Sutruk Nakhunte, 1100 B.C.)が、戦勝の記念文を彫り附けさせるために削ったものであろうと言われている。ド・モルガン氏はこの石柱の外になおバビロン王の記念碑五個をスザにおいて発掘したが、いずれもその一部分を削ってそこにスートルーク・ナクフンテ王の名が彫り附けてあった。これに依って見ると、ド・モルガン氏の発掘したところは、ちょうど戦勝記念博物館のような所であったろうということである。
 この石柱は始めシッパール(Sippar)のエバッバラ(Ebabbara)という所の、日の神の神殿の前に建っておったものであるが、紀元前一一〇〇年の頃エラム人(Elamite)の王スートルーク・ナクフンテがバビロンを征してこれに勝った時、戦利品としてこの石柱をスザに移したものであるということである。
 ハムムラビの石柱法は所々に建てられたものであって、スザで発見されたこの石柱の外にも数個あったらしい。既にスザでも第二の破片が発見され、またバビロンのエサジラの神殿前にも建てられておったということである。
 右の石柱の表面の上部には、日の神シャマシュ(Schamasch)の像が浮彫にしてある。日の神は頭に四層冠を戴いて王座に着き、肩の辺より左右に三条ずつの後光を発し、
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