hon)と称するところから、オストラキズムスの名が生じたのである。さて開票の結果、六千票以上を得たものがあったときには、その者は十年間(後には五年となった)国外に追放せられる。しかしながら、これは刑罰ではなく、一種のいわゆる保安条例に過ぎないのであるから、名誉権・市民権・財産権等には、何らの影響もなく、期限満ちて帰国の上は、再び以前の身分を回復することが出来る。また満期前であっても、民会の決議によって召還せられることもある。
 第一番にこの弾劾投票の犠牲となったのはヒッパルコス(Hipparchos)であるが、この法の立案者クレイステネス自身も、制定の翌々年、ペルシアと款《かん》を通じたとの嫌疑の下に、かの商鞅と運命を同じくせざるを得なかったのである。その他アリスティデス、テミストクレス、キモン(Cimon)、ツキディデス(Thucidides)などの諸名士も、頻々《ひんぴん》としてこの厄に罹《かか》っているが、これこの法が後には政争の手段として用いらるるに至ったためであって、二党対立の場合に、しばしば合意の上にてこの投票を行い、もって互に鼎《かなえ》の軽重を問うことであった。しかるに紀元前四一六年の投票に際して、二党妥協してヒペルボロス(Hyperbolos)なる一末輩に落票せしめたために、大いにこの法の価値を損じ、爾来《じらい》復《ま》た行われざるに至ったという。
 ギリシアでは、アテネのみでなく、アルゴス、ミレツス、メガラなどにも類似の法が行われておったが、紀元前第五世紀において、一時シラキュースに行われたものは、貝殻の代りに橄欖《かんらん》の葉即ちペタラ(Petala)を用いたので、その名もペタリズムス(Petalismus)といったとか。
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 四二 ハムムラビ法典


  一 法律史上の大発見

 第十九世紀において法律史上の二大発見があった。その前半においては、一八一六年にニーブール(Niebuhr)がイタリアのヴェロナの寺院の書庫においてガーイウスのインスチツーチョーネスを発見し、また同世紀の後半においては、一八八四年にハルブヘール(Halbherr)、ファブリチウス(Fabricius)の二氏がギリシアのクレート島にて、二千年以上の古法律たるゴルチーンの石壁法を発掘した。この二大発見は法律史上に最も貴重なる材料を与え、法学の進歩に偉大
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