したこの訴訟、佐渡殿などには歯も立つまい」と口々にいい囃《はや》したが、さて佐渡守が職に就いて、その裁決を下したのを見れば、調査は明細、判断は公平、関係人諸役人を始めとして、不安の眼で眺めておった満都の士民を、あっといわせたので、周防殿にも勝る佐渡殿よとの取沙汰|俄《にわか》に高く、新所司代の威望信任はたちどころに千鈞の重きを致したという。
そもそもこの疑獄については、重宗は夙《はや》くより最もその意を注いで、調査に調査を加え、既に判決を下すばかりになっていたものであるが、辞職の際の事務整理に、故《ことさ》らにこれのみを取残し、詳細なる意見書を添えて佐渡守に引継ぎ、佐渡守はただ板倉の意見をそっくりそのまま自分の名で発表したのに過ぎないのであった。掉尾《とうび》の大功を惜しげもなく割愛して、後進に花を持たせた先輩の襟懐《きんかい》、己を空しうして官庁の威信を添えた国士の態度、床しくもまた慕わしき限りではないか。
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四一 オストラキズムス
いやしくもギリシア史を読んだものは、アテネの名士テミストクレス(Themistocles)がオストラキズムス(Ostracismus)を行って、政敵アリスティデス(Aristeides)を追放し、心のままに自家の経綸《けいりん》を施して、大敵ペルシアを破ったことを知っているであろう。このオストラキズムスとは如何なるものであったか。
ギリシア諸邦ことにアテネなどにおいては、民主主義の結果として、中央政府の勢力は極めて微弱で、一兵を動かす権力をすら持っていなかった。故にもし一人の野心家があって民心を収攬し得たならば、政府を顛覆するは、一挙手の労に過ぎないのである。紀元前五〇九年、アテネのクレイステネス(Cleisthenes)がオストラキズムスなる新法を設けたのも、在野政治家の勢力を二葉《ふたば》のうちに摘み取って、斧を用いてもなお且つ及ばざる危険に到ることを予防する目的であったのである。
オストラキズムスは一種の弾劾投票である。毎年第一回の民会において、先ずこれを行うの必要ありや否やの議決を求め、もし積極に決したならば、次回の民会において、執政官および五百人会議員立会の上、各市民をして弾劾に当るべき人を投票せしめるのである。投票は牡蠣《かき》の一種の貝殻に記すのを例とした。その貝をオストラコン(Ostrac
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