sもと》よりその起因は政治上の議論であったけれども、その根拠とする所は学理論にあったので、このザヴィニーの説からドイツの歴史法学派が起るに至ったのである。
 ティボーの法典編纂論はザヴィニーの反対論のために当時は実行せられなんだけれども、その所論に促されて、爾後ドイツの民族統一運動も追々と行われ、この争議の後《の》ち半世紀を経て、ドイツ帝国は建設せられ、またその間に法律学も著しき進歩をなし、民法を始め各種の普通法典の編纂も行われ、竟《つい》に彼らが理想とせる「一民、一国、一法」(‘Ein Volk, ein Reich, ein Recht.’)の実を挙ぐるに至った。
 ザヴィニー、ティボーの法典争議は、その学理上の論拠、論争の成敗の跡、及びその結局が法典の編纂に帰着したところなど、悉く我法典延期戦に酷似している。我延期戦の後ち両派が握手して法典編纂に努めた如く、ザヴィニー、ティボーの両大家も定めて半世紀の後ち地下において握手したことであろう。
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 九九 民法編纂


 明治二十三年公布の法例、民法および商法は、前に話した通り、激烈なる論争の末、学理に照し実際に考えてその欠点の多きと、我国俗民情に適せざるものあるとの理由に基づいて、竟にその実施を延期し、これを改修することとなり、明治二十五年十一月法律第八号をもって明治二十九年十二月三十一日までその施行を延期することとなった。これにおいて、翌年三月、内閣に法典調査会を置かれることとなったが、伊藤総理大臣は総裁となられる予定であったから、先ずその始めに副総裁たるべき西園寺公望《さいおんじきんもち》侯、および委員に擬せられたる箕作麟祥博士を始め、数名の法律家を永田町の官邸に招いて大体の方針を諮問せられた。その時我輩が伊藤伯の命に依って上申した法典調査に関する方針意見書の大体は、(一)民法の修正は、根本的改修なるべきこと、(二)法典の体裁はパンデクテン式を採用し、サキソン民法の編別に拠るべきこと、(三)編纂の方法は分担起草、合議定案とすること、(四)委員は主査委員中に起草委員、整理委員を置き、起草委員は一人一編を担任し、総則編および法例はこれを兼担することを得ること、(五)各起草委員に補助委員を附すること、(六)委員には各学派は勿論弁護士、実業家などを加うべきこと、(七)議案は事務に関する議案、大体方針に関
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