キる議案および法規正文の議案の三種に分つべきことなどであった。
 我らが分担起草案を提出したのは、民法の延期は僅々三箇年の短期間であって、その間に民法の全部を根本的に改修する必要があるのであるから、勢い割普請《わりぶしん》の方法に依らざるを得ざるが故に、ドイツ帝国民法などの例に倣い、一編ごとに一人の起草委員を置いて、これをして総会で定めた方針と、各起草委員の協定した方法とに依って原案を作らしめ、そして特に鋭利明晰なる頭脳を有し、しかも注意細密なる委員を選んで整理委員となし、これをして各起草委員の立案せる原案を調和整理するの任に当らしむべきものとしたのであった。しかるに、富井博士はこの点に付いて始めより民法の起草および議定を三年間におわるの不可能なることを知り、共担起草の方法に依り、三人の起草委員をして協議立案せしめ、法典の主義、体裁、文章用語の一貫を期すべきものとし、法典の編纂を急ぐは不可なり、もし必要なるときは民法の再延期をなすも可なりとの意見を有し、分担起草案に対する修正案を提出せられたが、伊藤総裁もその意見を採用し、富井、梅の両君および我輩の三人に起草委員を命じ、仁井田益太郎、仁保亀松、松波仁一郎の三博士を民法起草の補助委員に、山田三良博士を法例起草の補助委員に任ぜられた。
 かくて、民法草案は明治二十六年五月十二日より二十八年の末に至るまで、会議を重ぬること百五十八回にして、総則、物権および債権の三編を議了し、二十九年一月に第九回帝国議会に提出せられ、議会では一箇条の追加と些少の修正とを加えてこれを可決し、同年四月法律第八十九号として右の三編を公布された。
 しかし法典延期の期限は明治二十九年の末日で尽きるのであるから、同年の帝国議会でなお一箇年半の再延期法案を議定し、十二月二十九日に法律第九十四号としてこれを公布された。
 民法の残部即ち親族編、相続編は、明治二十八年九月十四日より六十九回の会議を重ねて議了し、三十年十二月第十一回の帝国議会に提出された。故に民法全部は前後を通じて二百二十七回の会議で議了せられたことになる。これより先き、法典調査会においては、商法の編纂に着手し、同法起草委員たらしめるため、当時欧洲に滞在中なりし岡野敬次郎博士を召還し、梅博士、田部芳《たなべかおる》博士と共に起草の任に当らしめ、その原案は百三十二回の会議を経て議了せられたから
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