e逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ」と規定してある。また刑法第二条には「法律ニ正条ナキ者ハ何等ノ所為ト雖モ之ヲ罰スルコトヲ得ズ」との明文があるのである。これにも係《かかわ》らず、検事総長は、当局の命令によって、我皇室に対する罪をもって三蔵の犯行に擬せんとした。しかのみならず、時の司法大臣および内務大臣は、自ら大津に出張し、裁判官に面会して親しく説諭を加えんとした。しかれども、幸いにして当時の大審院長児島惟謙氏が、身命と地位を賭して行政官の威圧を防禦し、裁判官の多数もまたその職務に忠実にして、神聖なる法文の曲解を聴《ゆる》すことなく、常人律をもってこれを論じ、三蔵の行為を謀殺未遂として無期徒刑に処し、我憲法史上に汚点を残すことを免かれたのであった。
当時我ら法科大学の同僚も意見を具して当局に上申し、皇室に対する罪をもって三蔵の犯罪に擬するの非を論じた。しかるに当局および老政治家らの意見は、三蔵を死に処して露国に謝するに非ざれば、国難忽ちに来らん、国家ありての後の法律なり、煦々《くく》たる法文に拘泥して国家の重きを忘るるは学究の迂論《うろん》なり、宜しく法律を活用して帝国を危急の時に救うべしというにあった。副島種臣伯の如きは、さすがは学者であったから、余らの論を聴き、天皇三后皇太子云々を外国の皇族に当つるの不当なることを知り、また前に草案中の外国に関する箇条は悉《ことごと》く削除したることも知りおられたるをもって、慨嘆して「法律もし三蔵を殺すこと能わずんば種臣彼を殺さん」と喚《よば》わられたとのことである。我輩は当時これを聞いて、「伯の熱誠は同情に値するものである。三蔵を殺すの罪は、憲法を殺し、刑法を殺すの罪よりは軽い」と言うたことがある。
そもそも、大津事件においてかくの如き大困難を生じたのは、これ全く立法者の不用意に起因するものと言わねばならぬ。はじめ、明治十年に旧刑法の草案成り、元老院内に刑法草案審査局が設けられた時、第一に問題となった事は、実に草案総則第四条以下外国に関係する規定と、第二編第一章天皇の身体に対する罪との存否であった。委員会はこれを予決問題としてその意見を政府に具申したところ、十一年二月二十七日に至り、総裁伊藤博文氏は、外国人に関する条規は総《す》べてこれを削除すること、また皇室に対する罪はこれを設くることを上奏を経て決定したる旨を宣告した。当
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