桙ノ在っては、あたかも「新律綱領」制定の当時副島伯が皇室に対する罪を不必要と考えた如くに、外国の主権者または君家に対する犯行が起るべしとは、夢にも想い到ることはなかったことであろう。しかるに、幸徳事件はこの時に皇室に対する罪が定められてあったために拠《よ》るべき条文があり、大津事件はこの時に外国に関する条文が総べて削られてあったので、拠るべき特別の条規がなく、そのために外国の皇室に危害を加えたる場合といえども、常人に対する律をもってこれに擬して、無期徒刑に処するの外はなかったのである。即ち明治十三年発布の刑法には皇室に対する罪が設けられてあったために、幸徳事件にはこれに適用すべき特別法文があり、外国に関する事が悉《ことごと》く削られてあったために、大津事件にはこれに適用すべき特別法文がなかったのである。
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 一〇 副島種臣伯と量刑の範囲


 副島伯は漢儒であって、時々極端なる説を唱えられたから、世間には往々《おうおう》伯を頑固なる守旧家の如くに思っている人もあるようなれども、我輩の伝聞し、または自ら伯に接して知るところに依れば、伯は識見極めて高く、一面においては守旧思想を持しておられたにもかかわらず、他の一面においては進歩思想を持して、旧新共にこれを極端に現された人のように思う。前に掲げた大津事件の際に、「法律もし三蔵を殺す能わずんば、種臣これを殺さん」と喚《よば》わられた如きは、一方より観れば、極端なる旧思想の如く思われるけれども、また他方よりこれを観れば、伯はよく律の精神を解しておられた人であるから、暗に普通殺人律論の正当なるを認められたものとも解釈せられる。
 明治三年、「新律綱領」の編纂があった時、当時の委員は皆漢学者であったので、主として明《みん》律、清《しん》律などを基礎として立案したのであるが、伯は夙《つと》に泰西の法律に着目し、箕作麟祥《みつくりりんしょう》氏に命じてフランスの刑法法典を翻訳せしめ、これを編輯局に持参して、支那律に倣《なら》って一の罪に対して一定不動の刑を定むるの不当なる所以を論弁し、量刑に軽重長短の範囲を設くべき旨を主張せられたという事である。伯のこの議論は、当時極端なる急進説と認められたので、明治六年発布の「改定律例」にも採用せられなかったが、爾来《じらい》十年を経たる後、明治十三年発布の刑法に至って、漸《ようや
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