サの処置に付き委員より政府に上申して決裁を乞うに至った。しかるに、翌十一年二月二十七日、伊藤総裁は審査局に出頭し、内閣より上奏を経て、皇室に対する罪および内乱に関する罪は、これを存置することに決定したる旨を口達せられた。依って明治十三年発布の刑法以来、皇室に対する罪および国事犯に関する条規を刑典中に見るに至った。
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九 大津事件
法の粗密に関する利害は一概には断言し難いものであるが、刑法の如き、特に正文に拠《よ》るに非ざれば処断することを許さぬ法律は、たとい殆んど起り得べからざる事柄でも、事の極めて重大なるものは、その規定を設けて置かねばならぬということは、大津事件および幸徳事件の発生に依《よ》って明らかである。皇室に対する罪は、前に話した如く、副島伯の議論に依って一度削除されてしまったが、その後ち、伊藤公の議に依って規定を設けられたために、幸徳らの大逆事件も、拠って処断すべき法文があったのである。しかるに、同じく伊藤公の議によって刑法中にその規定を設けられなかった事について、最大困難に逢着したことが起った。それは即ち有名な大津事件である。
明治二十四年五月十一日、滋賀県の巡査津田三蔵なる者が、当時我邦に御来遊中なる露国皇太子殿下(今帝陛下)を大津町において要撃し、その佩剣《はいけん》をもって頭部に創《きず》を負わせ奉った。この報が一たび伝わるや、挙国|震駭《しんがい》し、殊に政府においては、今にも露国は問罪の師を起すであろうとまで心配し、その善後策について苦心を重ねたのであった。しかるに当時の刑法においては、謀殺未遂は死刑に一等または二等を減ずることになっていたので、津田三蔵は、重くとも無期徒刑以上に処することは出来なんだのであった。しかも、政府は心配の余り、三蔵を極刑に処するに非ざればロシヤに対して謝するの道なきものと考え、廟議《びょうぎ》をもって、我皇室に対する罪をもってロシヤの皇室に対する罪にも適用すべきものなりと定めて、三蔵の非行に擬するに刑法百十六条の「天皇三后皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」とある法文をもってし、遂に検事総長に命じてこれを起訴せしめた。
当時は、憲法が実施せられて僅に一年の時である。憲法には司法権の独立が保障してあり、また明文をもって臣民の権利を保障して、「日本臣民ハ法律ニ依ルニ非ズシ
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