段に出でた。
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「汝今こそ鉄面皮に大言を吐けども、元来理髪師の子ではないか。」
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罵《ののし》り得たりと彼は肩を聳《そびや》かしたが、忽ち静かなる反問を請けた。
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「汝は如何。」
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昂然として答えて曰く、
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「余は法律家の子なり。」
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テンタルデンは冷かに笑った。
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「汝は法律家の子なりしが故に法律家となり得たのであるか。幸福なることよ。もし汝をして吾輩の如く理髪師の子ならしめば、今頃は客の頤《あご》に石鹸を塗っているところであったろうに。」
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七六 法廷の掏摸
サー・トマス・ムーア(Sir Thomas Moore)がロンドン府裁判所判事長の職にあった時、部下の一判事に、甚だ片意地な男があった。窃盗|掏摸《すり》などの事件を断ずる場合に、彼は加害者を詰責せずして、かえって被害者を叱り付け、この災害は汝自身の不注意から自ら招いたものであるから、今更誰を怨むべきようもないと罵って、自ら得たりとしておった。ムーア判事長は大いにこれを片腹痛きことに思い、折もあらば懲らしめてくれようと待ち構えておった。
或時、有名な掏摸の名人が捕われたことがあった。裁判の前日、ムーアは密《ひそか》に彼に会って密計を授けた。明くれば裁判の当日である。かの判事は、例の如く先ず大喝一声被害者を叱り飛ばし、さて犯人の訊問に移った。犯人は神妙気に述べていう、「かくなる上は何事をか包みましょう。さりながら、ここに一つ何とあっても公言致し難い秘密がございます。これだけは何とぞ閣下の御耳に就いて申し述べさせて頂きたい」と、頻《しきり》に願うので、判事はこの危険なる被告を身近く召し寄せて、何事をか聴き取った。
かくてこの日の裁判も終ったので、裁判官は一同休憩室に入って、四方八方《よもやま》の話に耽《ふけ》った。ムーアは突然例の判事に向って、「目下何々慈善事業のために義金募集の挙があって、我輩も既に寸志を投じたが、君にも御志があるならば御取次致そう」と言い出した。判事は早速承諾の意を表し、「それでは何分願います」と、ポケットに手を差し入れたが、忽ち周章の色を顕《あらわ》して、頻にあちこち掻《か
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