止、証拠法の大改良などがあり、法理上においては、国際法(International Law)なる名称の創始、主法・助法(Substantive and Adjective Law)の区別、動権事実(Dispositive Facts)の類別など、枚挙するに遑《いとま》がない。なおまた彼の所論中、まさに行われんとしつつあるものは、刑法成典の編纂であって、その未だ全く行わるべき運命に到着しないものは、法典編纂論を始めとして、なお多々存している。そのうち、将来に実行を見るものも、決して少なくはないことであろう。
ベンサム死して既に半世紀、余威|殷々《いんいん》、今に至って漸《ようや》く熾《さか》んである。偉人は死すとも死せず。我輩はベンサムにおいて法律界の大偉人を見る。ミルの讃評に曰く、ベンサムは「混沌たる法学を承けて整然たる法学を遺せり」と。“He found the philosophy of law a chaos, and left it a science.”
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七一 合意の不成立
ベンサムは、その晩年に至って、世上の交際を避け、クウヰ[#「ヰ」は小書き]ーン・スコワヤ・プレースの住居を隠遁舎(Hermitage)と名づけて、心静かに一身を学理の研究に委ねた。或時エヂウォルスがこの隠遁舎に訪ねて来て、エヂウォルスはベンサム君に面会を希望すと紙片に書き付けて取次の者に渡したが、やがて引返して来た取次の者の、同じく一片の紙を差出したのを受取って見れば、こは如何に、ベンサムはエヂウォルス君に面会を希望せず。
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七二 ベンサムの法典編纂提議
ジェレミー・ベンサムは近世における法典編纂論の始祖とも称すべき人であるが、氏が欧米諸国の政府または国民に書を送って、その法典編纂の委嘱または諮詢《しじゅん》を勧請した事は、法律史上、ことに氏の伝記中において、異彩を放つ事実の一つに属するといわなければならぬ。
一八一四年五月、ベンサムは当時ロシアにおいて法典編纂の挙ある由を聞いて、一書をアレキサンドル帝に上《たてまつ》って、自ら法典立案の任に当りたいという事を請うた。その書面は頗《すこぶ》る長文であって、ここにその全文を引用することは出来ないが、今その首尾を訳載して、氏の熱心の一斑を示すこととしよう。
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外臣ジ
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