鞅となったのは、実に惜しいことである。
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六三 舶来学説
「法学協会雑誌」の初めて発行されたのは明治十七年の三月であるが、我輩はその第一号から引続いて「法律五大族の説」と題する論文を掲載した。この論文は自分が研究した結果を出したつもりであったが、間もなく「あれは西洋の何という学者の説ですか」との質問を諸方から受けたので、「あれは全く自分の説である」と言うても、なかなか信じてくれない。中にはその原書を見附けたなど言う人もあったそうだ。またこの分類を泰西の学者の説として引用する者もあり、その他当時我輩の説を引いて「西哲曰ク」などと言った者さえもあったので、我輩が戯れに「今後西哲タルノ光栄ヲ固辞セントス」などと書いた事もあった。
かような事は、今日からこれを観れば、まことに可笑《おか》しい事柄ではあるが、当時の我邦の学問界の有様では、これは決して怪しむに足らぬ事であったのである。我国人は維新以後始めて翻訳書に依って西洋の法律の事を知ったのであるが、法学教育としては、明治五年に司法省の明法寮《みょうほうりょう》で初めて法学教育を開始し、同七年に東京開成学校で法律科を置いたのであった。その後ちまだ僅に十年位しか立たない当時の事であって、当時東京大学でも、我輩もまだ英語で法律の講義をしておった時分で、いわば当時はまだ泰西法学の輪入の初期であったのであるから、我輩の言うこと書くことはことごとく西洋の学者の説の紹介であると思うのも、素《もと》より無理ならぬ事であるのみならず、また実際これが当時通常で且つ必要であったのである。
その後ち、我輩はまた比較法学研究法の便宜のために、なお法族説を完成しようと思うて、「法系」なる語を作り、同時に法律継受の系統を示すために「母法」および「子法」の語をも作って、法学通論および法理学の講義にはこれを用いた。これらの語も素より西洋の法律学語の翻訳であると思うている人が、今でも随分多いということである。
しかるに、これらの説を発表してから二十年も過ぎて後ち、明治三十七年に、アメリカのセント・ルイ世界博覧会の万国学芸大会から比較法学の講演者として招待せられた時、同会の比較法学部において、我輩は比較法学の新研究法として法系別比較法を採用すべきことを提議した。従来泰西の比較法学者の間には、国を比較の単位とするもの、即ち国別比較法
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