れを評して「秀吉の城普請《しろぶしん》のように、一夜に日本の五法を作り上げようとするは無理な話で、到底出来ようはずがない」と言い、同先生にもやれと言われたけれども、出来ぬと言って、江藤氏の命を受けなかったということである。先生の達見は実に敬服の至りである。洲股《すまた》の城普請は土木工事であるから、一夜に出来たかも知れぬが、国民性の発現なる法律は、一夜の内に変えることは出来ない。
しかしながら、始めに江藤氏の如き進取の気象の横溢した政治家があって突進の端を啓き、鋭意外国法の調査を始めたからこそ、後年の法制改善も着々その歩を進めて行くことが出来たのである。我邦の如く数千年孤立しておった国民が、俄然異種の文化に接触した場合には、種々の突飛な試験をして見て、前の失敗は後の鑑戒となり、後ち始めて順当なる進歩をなすに至るのは、やむを得ぬ事である。現に民法編纂の沿革からいうても、初めは江藤氏の敷写民法で、中ごろ大木伯らの模倣民法となり、終に現行の参酌民法となったのである。
[#改ページ]
六二 民権の意義を解せず
明治三年、太政官に制度局を置き、同局に民法編纂会を開いた時、江藤新平氏はその会長となった。当時同氏はフランス民法を基礎として日本民法を作ろうとし、箕作麟祥博士にフランス民法を翻訳させて、これを会議に附したことがあった。その節、博士はドロアー・シヴィールという語を「民権」と訳出されたが、我邦においては、古来人民に権利があるなどということは夢にも見ることがなかった事であるから、この新熟語に接した会員らは、容易にこの新思想を理会しかね、「民に権があるとは何の事だ」という議論が直ちに起ったのであった。箕作博士は口を極めてこれを弁明せられたけれども、議論はますます沸騰して、容易に治まらぬ。そこで江藤会長は仲裁して、「活かさず殺さず、姑《しばら》くこれを置け、他日必ずこれを活用するの時あらん」と言われたので、この一言に由って、辛うじて会議を通過することが出来たということである(「江藤南白」)。「他日必ずこれを活用するの時あらん」の一語、含蓄深遠、当時既に後年の民権論勃興を予想し、これに依って大いになすことあらんとしたものの如く思われる。しかも、南白は自己の救いたるこの「民権」の二字を他日に利用して憲政発達のためにその鋭才を用いるに至らず、不幸征韓論に蹉跌して、明治の商
前へ
次へ
全149ページ中83ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
穂積 陳重 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング