れわれ自身の手で把握しなければならないのである。
フランスの美術も、一般的に見ればそこにかなり低級なものもあるが、傑出している人の実力に至っては遺憾ながら日本の美術家と同列に論ずるわけにはゆかない。その第一の理由として考えられるのは、先ず彼我美術家の制作に対する態度に甚だしく懸隔があることを指摘しなければならぬ。フランスの大画家といわれる人を見ると、その悉くが非常なる熱意を持ち続けて、最後まで押し通している。その熱意の猛烈なることには、日本人のような淡白な人種はただ驚嘆するばかりであるが、彼等の堂々たるタブローは結局そうした素晴らしい熱意の集積である事実に対し、われわれは大いに反省すべきであろうと考えるのである。
もちろんそれには体力の相違ということもあるであろうが、日本の批評家の中には、どうも描きこみ過ぎている、もう少しアッサリやって貰いたい、などという人が多いのを見ると、油絵の本質というものが案外解っていないのではないかという気もする。油絵の本道を知らずに、徒らに日本人の趣味からそれを見ようとすることは大変な間違いである。
油絵の本質は、どこまでもどこまでも突っ込んで行くところにある。体力のすべてを動員し、研究のすべてを尽し、修正に修正を重ねて完璧なものにするのが油絵である。そしてそれがためには断じて中途で挫折することのない熱烈な意欲が必要なのである。
一体人間の行為である以上、誰の場合でもそこに誤ちがないと断定することはできないが、その誤りを改め、更に改め直して最後の完成に到達しようとするのが、油絵の行き方である。その点日本画とは非常な相違がある。日本画の場合にも、何枚も描き直すということはあるであろうが、画面に対する気持としてはむしろ絶対に描き直しをしないという心持の方が尊重されるのではないかと思われる。そこに日本画の特色のあることも見落せないが、彼我の特色を混同して見ることは大いに注意しなければならぬ。
油絵は与えられた一枚の画布を、どこまでも修正することができ、そこがまた特色なのである。そして出来上ったものが少しも渋滞の跡を止めないものになって始めて完成した作品と言い得るのであり、またそこまで修正が利きもするのである。油絵の中でもスケッチ風にサラッとしたものもあるが、真のタブローはあくまでもかかる土台の上に立っているのであって、その最後まで追求
前へ
次へ
全9ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
藤島 武二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング