にも孤煙の細くなびいているさまが想像されている。うっかり見るとただ単に花鳥を描いたとしか見えないが、画題を読むことによって、それが深山の幽趣を描いたものであることを知り、興趣は更に湧然として尽きぬのである。
 今一つの新羅山人画には次の如き画題がある。

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周到白頭情更好
一双高睡海棠春
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 これまた海棠と白頭鳥を描いたものであるが、そこには老来伉儷相和するの意が寓されていることを知るのである。

 東洋画には東洋画の伝統があるように、油絵にはまた油絵の伝統的精神が厳存する。イタリアに始まりフランスが継承したラテン精神がそれである。油絵を描くにはやはりその伝統を見ることが大切である。日本精神だけでいくら油絵を描こうとしても、それは無理である。
 油絵を描く場合においても、根本のエスプリは作者が日本人であるという事実を絶対に離れることはできないが、同時に油絵の伝統そのものにも眼をふさぐわけにはいかない。単に技術の上で学ぶべきものがあるという意ばかりでなく、その伝統精神の中からわれわれは大いに栄養とすべきものを摂取しなければならないと考える。
 どういう意味でいうのか知らないが、日本の美術も進歩した、誰彼の如きはフランスへ持って行っても優に一流の作家と肩を並べて恥ずかしくない位の実力を持っている、などという人があるが、私には到底そんなことは考え得られない。今度の事変では皇軍の強いことが改めて世界にはっきり認められたが、美術ももちろんそうあるべきことを熱望はしても、私の見るところでは、美術は未だそこまで行っているとは思えない。油絵は固よりであるが、日本画もその日本的な特色を離れて見ると案外幼稚であるように考えられる。戦争の場合における程、無条件に日本の美術を高く見ることは私にはできないのである。
 日本画の伝統について見れば、もちろん古人には幾多の優れた人がいるが、現代日本美術の水準は、日本画、洋画押しなべて世界第一流のものとは直ちに断定し得ないのである。いくら自分で世界一の美術だと称しても、押しの一手だけでは世界を承服せしむることはできない。皇軍の定評は、そこに儼たる実力が伴っているからであって、日本の美術が世界一になるためにはやはりそれだけの実力を持たなければならぬ。われわれはその押しを利かせるだけの実力を、すべからくわ
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