画室の言葉
藤島武二

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)滾々《こんこん》たる

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「さんずい+得のへん」、第4水準2−78−68]
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 私は今年の文展出品作「耕到天」に、次のような解説をつけて置いた。

[#ここから3字下げ]
耕到天是勤勉哉
耕到空是貧哉
[#ここから2字下げ]
 右はかつて前後日本を観たる二支那人の評言、いずれも真言なるは大に首肯するに足る、山水は美に、人は勤勉なるはわが神州の姿なり、然れども国土の貧弱なることもまた事実なり、よって鬱勃たる気魄、この時正当如何に処すべきか、現事変下示唆を受くるところ最も深刻なるものあり、因てこの意を寓して題と作す。
[#ここで字下げ終わり]

 解説そのものについては、作者としてこれ以上何もつけ加えるものはないが、解説をつけたという気持に対して、ここに先ずいささか説明を加えて置こう。
 解説をつけた直接の動機は、極めて簡単なことであった。つまり画題が判らぬという人が多いので、これに対する説明を加えて置いた方がよいと考えたからである。しかしこの場合、単に画題の説明に止まるのみでなく、そこに画因への自分の気持を語って置きたい考えがあったことも事実であった。自分としては東洋画における画題の如き気持で、あの解説を書いたのである。
 一体絵画というものは、画面の表現を見るものであるから、その意味からいって先ず線や面や色の濃淡を見ようとすることは少しも間違いではない。しかし同時に、それだけでは満足できないことも事実であろうと思われる。もちろんどれ程深遠な内容が含まれていても、表現ができておらなければ絵としての問題とはならないが、それと同じ意味で何程表面だけができていても、内容に見るべきものがなければ、それは決して高度の鑑賞に耐え得るものではない。したがって絵を見る場合、単に画面の表面だけを見るに止まっては、それは正しい鑑賞とは言い得ないと思う。
 絵画のエスプリというのは、即ち画面の裏にかくされている作者の気持を言うのである。作品には必ず作者のエスプリが現われておらねばならぬし、同時に見る人も作品を通じて作者のエスプリのない作品、エスプリを見得ない鑑
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