賞は、共に皮相的なるものであるに過ぎない。
 これはたとえていえば、人間の場合でも同じことである。いかに恰幅がよく容貌が魁偉であっても、その人にエスプリがなければ、真に威風堂々とは見られないであろうし、如何に器量がよくてもエスプリのない女は美人とは言い得ないわけである。姿態や顔貌は、絵でいえば画面の表面のことで、それを生かすものは結局人間のエスプリであるに外ならない。
 支那では昔から「読画」ということがいわれているが、これは非常にいい言葉だと思う。つまり絵は見るものであると同時に、その意味を読むものであるということである。即ち、絵のエスプリを理解して初めて正しい鑑賞がなり立つことをいっているのである。
 絵を見る場合、画面には先ず色彩があり、構図があり、線描があって、それが眼に入るのは当然であるが、それ以上に未だ奥があることを知っておかなければならぬ。テクニックの重要なことはもちろんであるが、これは狭い範囲の専門家がいうべきことであって、一般の人は必ずしもテクニックについて理解が深い必要はない。もちろんそれもあるに越したことはないが、その重要さを比較すれば、読画の精神は遥かにそれ以上である。
 私は絵を見る場合、常にこの気持をもってすることを忘れないようにしている。単に技巧の巧拙を見るばかりでなく、その絵を描いている人の態度とか、その絵のできる動機を見なければならぬと考えている。この点が何よりも大切なことであろうと信じているのである。
 支那の絵画、殊に南画系のものには必ず画題がついているが、これは西洋画には全く見られないことで、その点東洋画独自のものであると言い得られる。もちろん西洋画にも画題はあるが、それは静物とか風景とか、ただ目録を作る場合の便宜のための符牒のようなものである。しかし画題というものの本来の意味は、決してそんなものではなく、作者のイデーが画面に現われ、それを訳して画題に示すのではないと思う。その点支那画には、作者の気持を詳しく文字に書き現わしていて、画題本来の意味がはっきり窺われている。絵を見て感心するばかりでなく、その画題によって作者の心持が見えるということは非常にいいことであると思う。
 私の家の書斎にはいま新羅山人筆の柿と目白の水墨画の複製を額に入れて掲げてあるが、この絵には次のような画題が書いてある。

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