の筆を止めないところに最も油絵らしい特質が発揮されるのである。もちろん口で言う程簡単なことではないが、最初画因によって得た興味を最後まで冷まさずに描けるところが特色なのであるから、油絵画家は最後まで所期のエスプリに向って追求の筆を止めるべきではないのである。油絵を描く場合、この本質を忘れて如何に小技巧を弄しても、それは決して堂々たるタブローとはなり得ないのである。
 修正を重ねるということは、結局修正の跡を全く止めないところに達するための手段である。あえて美術の場合のみに限ったことではないが、苦心の跡がむき出しに見え、労作の痕跡がありありと窺われているのでは、それを真の完成品と称することは未だしである。真の完成品とは即ち画面にいささかの作為も見られず、すこしの渋滞を止めないに至って初めて言い得ることであって、これこそ即ち天衣無縫の境地であるに外ならない。苦心は誰でもするが、その苦心がすっかり醇化されることは非常に困難である。如何にも天衣無縫らしく見せかけてあるが、実は方々に縫い目が見えているというような場合が案外に少なくないものである。近来若い人達の間にしきりに天衣無縫という言葉が安直に取扱われているようだが、その実どうかと思われる場合が多いのはどんなものであろう。
 古い時代の大画家はもちろんであるが、私はその意味で、ピカソでもボナールでもドランでもそれぞれ立派な仕事をしていると思っている。少なくともその素晴らしい熱意には、大いに学ぶべきであろうと考えるのである。

 若い人達の仕事を見ると、何れもなかなか巧妙にやってはいるが、一列に自分自身の熱意が未だ足りないということを感じさせられる。ピカソに学ぶのもよいが、ただ画面への追随として終っては無意味である。ピカソに学ばねばならぬのは、むしろその画面の裏にかくされている彼の逞しい熱意を見ることにあらねばならないと思う。
 熱意が足りないということは、同時にエスプリが足りないということである。何だかんだと迷っていることである。口ではイデオロギーを称するが、本当は未だよく解っておらぬからである。もし本当に自己を知り、強固に自己のエスプリを持っているならば、目標に向って邁進すべく熱意は自ずから湧き出るということが考えられていいはずである。
 芸術の道に志す以上、もちろん誰の場合にも自分の心持はあるわけであるが、いろいろなも
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