のに邪魔をされてそれが容易に発見できないということがある。同時に、日本人として先祖以来の国土に育ち、長い伝統の下に、誰もが皆どこかに日本人としてのエスプリを持っているに相違ないにも拘らず、自分でそれを認めないという場合もある。しかし美術史上の名作のどの一つをとって見ても、それが時代精神の反映でないものはない事実を考えて見れば、いま日本人としてのエスプリが、時局確認の上に立ち日本民族としての自覚の上にあらねばならぬことは余りにも自明である。懐疑と低徊からは何ものをも生み出し得ない。問題は虚心に純真に、物を正視することに尽きる。私は今の若い作家に、切にこのことを言って置きたいのである。
 自分の周囲の暗雲を払って、本当の自分を発見するということは、仏教などでもそれを最も大切なことに見ている。仏教で「自性円満」と言っているが、如何に立派な教理を聴いても自己をはっきり認識できなければ何にもならないことを教えるのである。仏教ではまた「這箇《しゃこ》」ということをいうが、これは即ち自己のエスプリを把握せよということである。口先で理屈をこねることは易しいが、本当にそれを自覚することは容易ではない。下らぬ空想や妄想に惑って、自己を忘れて了っては全く何にもならぬ。この実に簡単なことが却って非常に難かしいのであるが、われわれは力めて単純に簡潔に自分自身を生かすことによって、自己のエスプリをますますしっかりと自分のものにしなければならないことを痛感するばかりである。
 作家のみならず、批評家もまた同じことである。如何に博学多識を誇っても、自己のエスプリを把握しておらなければ、それはただ単に文字に書かれた批評であるに過ぎない。批評が生きた批評となるためには、借り物の知識を振り廻すだけでは駄目である。自己にエスプリのある批評家になってこそ初めて、絵を見る力が具わるのである。どれ程巧みに何程多弁に批評が語られていても、エスプリを見得ない批評はむしろ無用の長物である。
 かくして最後に、芸術の深奥の底にあるものを絵を読む力のある人が感受し、作者のエスプリと観者のエスプリが完全に渾融した時、芸術の久遠の生命がそこに見出されるのである。そして永久に長い感銘を伝えるもののみが後世に遺ってゆく。盲千人ということをいうが、その間をくぐって遺る価値あるもののみが遺ってゆく。これこそは実に誰もが何ともすること
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