のできない、余りにも厳粛なる事実である。
結局最後まで遺るものは、作者の精神が強く輝いている作品である。何程表面が美しくても、エスプリのない作品は決して後世に遺ることができない。仮りに当時にあってそのエスプリが理解されなくとも、いつかは必ずそれが認められて後世に遺ってゆくのである。私は近頃この「永久に遺る」ということをしみじみ恐ろしいことだと考えている。
美術は永久に遺るものによって世の中を浄化するのである。ここに本当の芸術の価値が見出されるのである。そしてこのことは一方においてますます自己の無力を反省せしめることではあるが、その反面自己の仕事を楽しくさせることであると思う。私もまたこの両様の気持を同時に感じながら、ただ制作に力めるばかりである。改めて考えるまでもないが、展覧会で評判をとるというだけでは、まことに情けない芸当ではないかと思う。
一体芸術は自分だけの力で発達するものではない。周囲の力が昂揚すると同時に、芸術の力もそれにつれて湧き上ってくるのである。たとえば現在の文展なども、大きく見ればそれを文展のみの責任に帰することは間違っているとも言い得られる。現在の日本の文化の在り方は大体あの程度のもので、文展だけが殊更それ以下というわけではない。日本の現在の政治、経済、文化のすべてを色と形で現わして見れば、要するに文展が出来上るわけである。その点、現実の文展はいま過渡期にあることも注意されなければならぬ。
私は文展に限らず美術界のすべては、事変を契機とする民族力の発展昂揚を反映して、やがて大なる成果を挙げるであろうことを確信している。平和的所産である美術が事変によって蒙った打撃は深大であり、そこに一時の萎靡不振は已むを得なかったけれど、私はそれに対しいささかも悲観の必要はないと考えているのである。
それよりも私はむしろ戦勝正大の気魄、国家興隆の大精神が美術の上にも当然顕示されて、従来よりも一層健康な大芸術の勃興が期待し得ることを断言して憚らないのである。かかる事実は古今東西の歴史に徴して既に余りにも歴然たることであり、更に日本民族の力を認識すればそれが余りにも当然なる結論であることを何人と雖も首肯せずにはおられないはずである。
ただかかる機運は自ら醸成されるものであり、必ずしも人為的に導かれ得るものでないことを考える必要がある。たとえていえば、それ
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