なわち吾《わが》一身《いっしん》の事なり、後世子孫これを再演するなかれとの意を示して、断然《だんぜん》政府の寵遇《ちょうぐう》を辞し、官爵《かんしゃく》を棄《す》て利禄《りろく》を抛《なげう》ち、単身《たんしん》去《さっ》てその跡を隠《かく》すこともあらんには、世間の人も始めてその誠の在《あ》るところを知りてその清操《せいそう》に服《ふく》し、旧政府|放解《ほうかい》の始末《しまつ》も真に氏の功名に帰《き》すると同時に、一方には世教《せいきょう》万分の一を維持《いじ》するに足るべし。
すなわち我輩《わがはい》の所望《しょもう》なれども、今その然《しか》らずして恰《あたか》も国家の功臣を以《もっ》て傲然《ごうぜん》自《みず》から居《お》るがごとき、必ずしも窮屈《きゅうくつ》なる三河武士《みかわぶし》の筆法を以て弾劾《だんがい》するを須《ま》たず、世界|立国《りっこく》の常情《じょうじょう》に訴《うった》えて愧《はず》るなきを得ず。啻《ただ》に氏の私《わたくし》の為《た》めに惜《お》しむのみならず、士人社会|風教《ふうきょう》の為《た》めに深く悲しむべきところのものなり。
また勝氏と同時に榎本武揚《えのもとたけあき》なる人あり。これまた序《ついで》ながら一言せざるを得ず。この人は幕府の末年に勝氏と意見を異《こと》にし、飽《あ》くまでも徳川の政府を維持《いじ》せんとして力を尽《つく》し、政府の軍艦|数艘《すうそう》を率《ひき》いて箱館《はこだて》に脱走《だっそう》し、西軍に抗《こう》して奮戦《ふんせん》したれども、ついに窮《きゅう》して降参《こうさん》したる者なり。この時に当《あた》り徳川政府は伏見《ふしみ》の一敗|復《ま》た戦うの意なく、ひたすら哀《あい》を乞《こ》うのみにして人心|既《すで》に瓦解《がかい》し、その勝算なきは固《もと》より明白なるところなれども、榎本氏の挙《きょ》は所謂《いわゆる》武士の意気地《いきじ》すなわち瘠我慢《やせがまん》にして、その方寸《ほうすん》の中には竊《ひそか》に必敗を期しながらも、武士道の為《た》めに敢《あえ》て一戦を試《こころ》みたることなれば、幕臣また諸藩士中の佐幕党《さばくとう》は氏を総督《そうとく》としてこれに随従《ずいじゅう》し、すべてその命令に従て進退《しんたい》を共にし、北海の水戦、箱館の籠城《ろうじょう》、その決死苦戦の忠勇《ちゅうゆう》は天晴《あっぱれ》の振舞《ふるまい》にして、日本魂《やまとだましい》の風教上より論じて、これを勝氏の始末《しまつ》に比すれば年を同《おなじ》うして語るべからず。
然《しか》るに脱走《だっそう》の兵、常に利あらずして勢《いきおい》漸《ようや》く迫《せま》り、また如何《いかん》ともすべからざるに至りて、総督《そうとく》を始め一部分の人々は最早《もはや》これまでなりと覚悟《かくご》を改めて敵の軍門に降《くだ》り、捕《とら》われて東京に護送《ごそう》せられたるこそ運の拙《つたな》きものなれども、成敗《せいはい》は兵家《へいか》の常にして固《もと》より咎《とが》むべきにあらず、新政府においてもその罪を悪《にく》んでその人を悪まず、死《し》一等《いっとう》を減《げん》じてこれを放免《ほうめん》したるは文明の寛典《かんてん》というべし。氏の挙動《きょどう》も政府の処分《しょぶん》も共に天下の一|美談《びだん》にして間然《かんぜん》すべからずといえども、氏が放免《ほうめん》の後《のち》に更に青雲《せいうん》の志を起し、新政府の朝《ちょう》に立つの一段に至りては、我輩《わがはい》の感服《かんぷく》すること能《あた》わざるところのものなり。
敵に降《くだ》りてその敵に仕《つか》うるの事例《じれい》は古来|稀有《けう》にあらず。殊《こと》に政府の新陳《しんちん》変更《へんこう》するに当りて、前政府の士人等が自立の資《し》を失い、糊口《ここう》の為《た》めに新政府に職を奉《ほう》ずるがごときは、世界|古今《ここん》普通の談《だん》にして毫《ごう》も怪《あや》しむに足らず、またその人を非難すべきにあらずといえども、榎本氏の一身はこれ普通の例を以て掩《おお》うべからざるの事故《じこ》あるがごとし。すなわちその事故とは日本武士の人情これなり。氏は新政府に出身して啻《ただ》に口を糊《のり》するのみならず、累遷《るいせん》立身《りっしん》して特派公使に任ぜられ、またついに大臣にまで昇進し、青雲《せいうん》の志《こころざし》達《たっ》し得て目出度《めでた》しといえども、顧《かえり》みて往事《おうじ》を回想《かいそう》するときは情に堪《た》えざるものなきを得ず。
当時|決死《けっし》の士を糾合《きゅうごう》して北海の一隅《いちぐう》に苦戦を戦い、北風|競《きそ》わずしてついに降参《こうさん》したるは是非《ぜひ》なき次第《しだい》なれども、脱走《だっそう》の諸士は最初より氏を首領《しゅりょう》としてこれを恃《たの》み、氏の為《た》めに苦戦し氏の為《た》めに戦死したるに、首領にして降参《こうさん》とあれば、たとい同意の者あるも、不同意の者は恰《あたか》も見捨てられたる姿にして、その落胆《らくたん》失望《しつぼう》はいうまでもなく、ましてすでに戦死したる者においてをや。死者|若《も》し霊あらば必ず地下に大不平を鳴らすことならん。伝え聞く、箱館《はこだて》の五稜郭《ごりょうかく》開城《かいじょう》のとき、総督《そうとく》榎本氏より部下に内意を伝えて共に降参せんことを勧告《かんこく》せしに、一部分の人はこれを聞《きい》て大《おおい》に怒り、元来今回の挙《きょ》は戦勝を期したるにあらず、ただ武門の習《ならい》として一死|以《もっ》て二百五十年の恩に報《むくい》るのみ、総督もし生を欲せば出でて降参せよ、我等《われら》は我等の武士道に斃《たお》れんのみとて憤戦《ふんせん》止《とど》まらず、その中には父子|諸共《もろとも》に切死《きりじに》したる人もありしという。
烏江《うこう》水浅《みずあさくして》騅能逝《すいよくゆくも》、一片《いっぺんの》義心《ぎしん》不可東《ひんがしすべからず》とは、往古《おうこ》漢楚《かんそ》の戦に、楚軍《そぐん》振《ふる》わず項羽《こうう》が走りて烏江《うこう》の畔《ほとり》に至りしとき、或人はなお江を渡りて、再挙《さいきょ》の望なきにあらずとてその死を留《とど》めたりしかども、羽《う》はこれを聴《き》かず、初め江東の子弟八千を率《ひき》いて西し、幾回《いくかい》の苦戦に戦没《せんぼつ》して今は一人の残る者なし、斯《かか》る失敗の後に至り、何の面目か復《ま》た江東に還《かえ》りて死者の父兄を見んとて、自尽《じじん》したるその時の心情を詩句に写《うつ》したるものなり。
漢楚《かんそ》軍談のむかしと明治の今日《こんにち》とは世態《せいたい》固《もと》より同じからず。三千年前の項羽《こうう》を以《もっ》て今日の榎本氏を責《せむ》るはほとんど無稽《むけい》なるに似《に》たれども、万古不変《ばんこふへん》は人生の心情にして、氏が維新《いしん》の朝《ちょう》に青雲の志を遂《と》げて富貴《ふうき》得々《とくとく》たりといえども、時に顧《かえり》みて箱館《はこだて》の旧を思い、当時|随行《ずいこう》部下の諸士が戦没《せんぼつ》し負傷したる惨状《さんじょう》より、爾来《じらい》家に残りし父母兄弟が死者の死を悲しむと共に、自身の方向に迷うて路傍《ろぼう》に彷徨《ほうこう》するの事実を想像し聞見《もんけん》するときは、男子の鉄腸《てっちょう》もこれが為《た》めに寸断《すんだん》せざるを得ず。夜雨《やう》秋《あき》寒《さむ》うして眠《ねむり》就《な》らず残燈《ざんとう》明滅《めいめつ》独《ひと》り思うの時には、或は死霊《しりょう》生霊《いきりょう》無数の暗鬼《あんき》を出現して眼中に分明なることもあるべし。
蓋《けだ》し氏の本心は、今日に至るまでもこの種の脱走士人《だっそうしじん》を見捨てたるに非ず、その挙を美としてその死を憐《あわれ》まざるに非ず。今一証を示さんに、駿州《すんしゅう》清見寺内《せいけんじない》に石碑《せきひ》あり、この碑は、前年幕府の軍艦|咸臨丸《かんりんまる》が、清水港《しみずみなと》に撃《う》たれたるときに戦没《せんぼつ》したる春山弁造《はるやまべんぞう》以下脱走士の為《た》めに建てたるものにして、碑の背面に食人之《ひとのしょくを》食者《はむものは》死人之事《ひとのことにしす》の九字を大書して榎本武揚《えのもとたけあき》と記し、公衆の観に任して憚《はばか》るところなきを見れば、その心事の大概《たいがい》は窺《うかがい》知《し》るに足《た》るべし。すなわち氏はかつて徳川家の食《しょく》を食《は》む者にして、不幸にして自分は徳川の事に死するの機会を失うたれども、他人のこれに死するものあるを見れば慷慨惆悵《こうがいちゅうちょう》自《おのず》から禁ずる能《あた》わず、欽慕《きんぼ》の余《あま》り遂《つい》に右の文字をも石《いし》に刻《こく》したることならん。
すでに他人の忠勇《ちゅうゆう》を嘉《よ》みするときは、同時に自《みず》から省《かえり》みて聊《いささ》か不愉快《ふゆかい》を感ずるもまた人生の至情《しじょう》に免《まぬ》かるべからざるところなれば、その心事を推察《すいさつ》するに、時としては目下の富貴《ふうき》に安んじて安楽《あんらく》豪奢《ごうしゃ》余念《よねん》なき折柄《おりから》、また時としては旧時の惨状《さんじょう》を懐《おも》うて慙愧《ざんき》の念を催《もよ》おし、一喜一憂一哀一楽、来往《らいおう》常《つね》ならずして身を終るまで円満《えんまん》の安心《あんしん》快楽《かいらく》はあるべからざることならん。されば我輩《わがはい》を以《もっ》て氏の為《た》めに謀《はか》るに、人の食《しょく》を食《は》むの故《ゆえ》を以《もっ》て必ずしもその人の事に死すべしと勧告《かんこく》するにはあらざれども、人情の一点より他に対して常に遠慮《えんりょ》するところなきを得ず。
古来の習慣に従えば、凡《およ》そこの種の人は遁世《とんせい》出家《しゅっけ》して死者の菩提《ぼだい》を弔《とむら》うの例もあれども、今の世間の風潮にて出家《しゅっけ》落飾《らくしょく》も不似合《ふにあい》とならば、ただその身を社会の暗処《あんしょ》に隠《かく》してその生活を質素《しっそ》にし、一切《いっさい》万事《ばんじ》控目《ひかえめ》にして世間の耳目《じもく》に触《ふ》れざるの覚悟《かくご》こそ本意なれ。
これを要するに維新《いしん》の際、脱走《だっそう》の一挙《いっきょ》に失敗《しっぱい》したるは、氏が政治上の死にして、たといその肉体の身は死せざるも最早《もはや》政治上に再生《さいせい》すべからざるものと観念して唯《ただ》一身を慎《つつし》み、一は以《もっ》て同行戦死者の霊を弔《ちょう》してまたその遺族《いぞく》の人々の不幸不平を慰《なぐさ》め、また一には凡《およ》そ何事に限らず大挙《たいきょ》してその首領の地位に在る者は、成敗《せいはい》共に責《せめ》に任じて決してこれを遁《のが》るべからず、成《な》ればその栄誉《えいよ》を専《もっぱ》らにし敗すればその苦難《くなん》に当るとの主義を明《あきらか》にするは、士流社会の風教上《ふうきょうじょう》に大切《たいせつ》なることなるべし。すなわちこれ我輩《わがはい》が榎本氏の出処《しゅっしょ》に就《つ》き所望《しょもう》の一点にして、独《ひと》り氏の一身の為《た》めのみにあらず、国家百年の謀《はかりごと》において士風|消長《しょうちょう》の為《た》めに軽々《けいけい》看過《かんか》すべからざるところのものなり。
以上の立言《りつげん》は我輩《わがはい》が勝、榎本の二氏に向《むかっ》て攻撃を試《こころ》みたるにあらず。謹《つつし》んで筆鋒《ひっぽう》を寛《かん》にして苛酷《かこく》の文字を用いず、以《もっ》てその人の名誉を保護
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