すべからずといい、主公の身の上|危《あやう》しといい、或は言を大にして墻《かき》に鬩《せめ》ぐの禍は外交の策にあらずなど、百方|周旋《しゅうせん》するのみならず、時としては身を危《あやう》うすることあるもこれを憚《はばか》らずして和議《わぎ》を説《と》き、ついに江戸解城と為《な》り、徳川七十万石の新封《しんぽう》と為りて無事《ぷじ》に局を結びたり。実に不可思議千万《ふかしぎせんばん》なる事相《じそう》にして、当時或る外人の評に、およそ生あるものはその死に垂《なんな》んとして抵抗を試みざるはなし、蠢爾《しゅんじ》たる昆虫《こんちゅう》が百貫目の鉄槌《てっつい》に撃《う》たるるときにても、なおその足を張《はっ》て抵抗の状をなすの常なるに、二百七十年の大政府が二、三強藩の兵力に対して毫《ごう》も敵対《てきたい》の意なく、ただ一向《いっこう》に和《わ》を講《こう》じ哀《あい》を乞《こ》うて止《や》まずとは、古今世界中に未だその例を見ずとて、竊《ひそか》に冷笑《れいしょう》したるも謂《いわ》れなきにあらず。
 蓋《けだ》し勝氏《かつし》輩《はい》の所見《しょけん》は内乱の戦争を以て無上の災害《さいがい》無益《むえき》の労費《ろうひ》と認め、味方に勝算《しょうさん》なき限りは速《すみやか》に和《わ》して速に事《こと》を収《おさむ》るに若《し》かずとの数理を信じたるものより外ならず。その口に説くところを聞けば主公の安危《あんき》または外交の利害などいうといえども、その心術の底《そこ》を叩《たたい》てこれを極《きわ》むるときは彼《か》の哲学流の一種にして、人事国事に瘠我慢《やせがまん》は無益なりとて、古来日本国の上流社会にもっとも重んずるところの一大主義を曖昧糢糊《あいまいもこ》の間《かん》に瞞着《まんちゃく》したる者なりと評して、これに答うる辞《ことば》はなかるべし。一時の豪気《ごうき》は以て懦夫《だふ》の胆《たん》を驚《おどろ》かすに足り、一場の詭言《きげん》は以て少年輩の心を籠絡《ろうらく》するに足るといえども、具眼卓識《ぐがんたくしき》の君子《くんし》は終《つい》に欺《あざむ》くべからず惘《し》うべからざるなり。
 左《さ》れば当時|積弱《せきじゃく》の幕府に勝算《しょうさん》なきは我輩《わがはい》も勝氏とともにこれを知るといえども、士風維持の一方より論ずるときは、国家|存亡《そんぼう》の危急《ききゅう》に迫《せま》りて勝算の有無《うむ》は言うべき限りにあらず。いわんや必勝《ひっしょう》を算《さん》して敗《はい》し、必敗《ひっぱい》を期して勝《か》つの事例も少なからざるにおいてをや。然《しか》るを勝氏は予《あらかじ》め必敗を期し、その未だ実際に敗れざるに先んじて自《みず》から自家の大権《たいけん》を投棄《とうき》し、ひたすら平和を買わんとて勉《つと》めたる者なれば、兵乱のために人を殺し財を散ずるの禍《わざわい》をば軽くしたりといえども、立国の要素たる瘠我慢《やせがまん》の士風を傷《そこな》うたるの責《せめ》は免《まぬ》かるべからず。殺人《さつじん》散財《さんざい》は一時の禍にして、士風の維持は万世《ばんせい》の要なり。これを典《てん》して彼《かれ》を買う、その功罪|相償《あいつぐな》うや否《いな》や、容易に断定すべき問題にあらざるなり。
 或はいう、王政維新《おうせいいしん》の成敗《せいはい》は内国の事にして、いわば兄弟|朋友《ほうゆう》間の争いのみ、当時東西|相敵《あいてき》したりといえどもその実は敵にして敵にあらず、兎《と》に角《かく》に幕府が最後の死力を張らずしてその政府を解《と》きたるは時勢に応じて好《よ》き手際《てぎわ》なりとて、妙《みょう》に説を作《な》すものあれども、一場《いちじょう》の遁辞《とんじ》口実《こうじつ》たるに過ぎず。内国の事にても朋友間《ほうゆうかん》の事にても、既《すで》に事端《じたん》を発するときは敵はすなわち敵なり。然《しか》るに今その敵に敵するは、無益《むえき》なり、無謀《むぼう》なり、国家の損亡《そんもう》なりとて、専《もっぱ》ら平和無事に誘導《ゆうどう》したるその士人《しじん》を率《ひき》いて、一朝《いっちょう》敵国|外患《がいかん》の至るに当り、能《よ》くその士気を振《ふる》うて極端《きょくたん》の苦辛《くしん》に堪《た》えしむるの術あるべきや。内に瘠我慢《やせがまん》なきものは外に対してもまた然《しか》らざるを得ず。これを筆にするも不祥《ふしょう》ながら、億万《おくまん》一にも我《わが》日本国民が外敵に逢《あ》うて、時勢を見計《みはか》らい手際好《てぎわよ》く自《みず》から解散するがごときあらば、これを何とか言わん。然《しか》り而《しこう》して幕府解散の始末《しまつ》は内国の事に相違なしといえども、自《おのず》から一例を作りたるものというべし。
 然《しか》りといえども勝氏も亦《また》人傑《じんけつ》なり、当時幕府内部の物論《ぶつろん》を排《はい》して旗下《きか》の士の激昂《げきこう》を鎮《しず》め、一身を犠牲《ぎせい》にして政府を解《と》き、以て王政維新《おうせいいしん》の成功を易《やす》くして、これが為《た》めに人の生命を救い財産を安全ならしめたるその功徳《こうとく》は少なからずというべし。この点に就《つい》ては我輩《わがはい》も氏の事業を軽々《けいけい》看過《かんか》するものにあらざれども、独《ひと》り怪《あや》しむべきは、氏が維新の朝《ちょう》に曩《さ》きの敵国の士人と並立《ならびたっ》て得々《とくとく》名利《みょうり》の地位に居《お》るの一事なり(世に所謂《いわゆる》大義名分《たいぎめいぶん》より論ずるときは、日本国人はすべて帝室《ていしつ》の臣民にして、その同胞《どうほう》臣民の間に敵も味方もあるべからずといえども、事の実際は決して然《しか》らず。幕府の末年に強藩の士人等が事を挙《あ》げて中央政府に敵し、其《その》これに敵するの際に帝室《ていしつ》の名義《めいぎ》を奉じ、幕政の組織を改めて王政の古《いにしえ》に復《ふく》したるその挙《きょ》を名《なづ》けて王政維新《おうせいいしん》と称することなれば、帝室《ていしつ》をば政治社外の高処《こうしょ》に仰《あお》ぎ奉《たてまつ》りて一様《いちよう》にその恩徳《おんとく》に浴《よく》しながら、下界《げかい》に居《おっ》て相《あい》争《あらそ》う者あるときは敵味方の区別なきを得ず。事実に掩《おお》うべからざるところのものなればなり。故《ゆえ》に本文《ほんもん》敵国の語、或《あるい》は不穏《ふおん》なりとて説を作《な》すものもあらんなれども、当時の実際より立論すれば敵の字を用いざるべからず)。
 東洋和漢の旧筆法に従えば、氏のごときは到底《とうてい》終《おわり》を全《まっと》うすべき人にあらず。漢《かん》の高祖《こうそ》が丁公《ていこう》を戮《りく》し、清《しん》の康煕《こうき》帝が明《みん》末の遺臣《いしん》を擯斥《ひんせき》し、日本にては織田信長《おだのぶなが》が武田勝頼《たけだかつより》の奸臣《かんしん》、すなわちその主人を織田に売らんとしたる小山田義国《おやまだよしくに》の輩《はい》を誅《ちゅう》し、豊臣秀吉《とよとみひでよし》が織田|信孝《のぶたか》の賊臣|桑田彦右衛門《くわたひこえもん》の挙動《きょどう》を悦《よろこ》ばず、不忠不義者、世の見懲《みごら》しにせよとて、これを信考の墓前《ぼぜん》に磔《はりつけ》にしたるがごとき、是等《これら》の事例は実に枚挙《まいきょ》に遑《いとま》あらず。
 騒擾《そうじょう》の際に敵味方|相対《あいたい》し、その敵の中に謀臣《ぼうしん》ありて平和の説を唱《とな》え、たとい弐心《ふたごころ》を抱《いだ》かざるも味方に利するところあれば、その時にはこれを奇貨《きか》として私《ひそか》にその人を厚遇《こうぐう》すれども、干戈《かんか》すでに収《おさ》まりて戦勝の主領が社会の秩序《ちつじょ》を重んじ、新政府の基礎《きそ》を固くして百年の計をなすに当りては、一国の公道のために私情を去り、曩《さ》きに奇貨《きか》とし重んじたる彼《か》の敵国の[#「敵国の」は底本では「敬国の」]人物を目《もく》して不臣不忠《ふしんふちゅう》と唱《とな》え、これを擯斥《ひんせき》して近づけざるのみか、時としては殺戮《さつりく》することさえ少《すく》なからず。誠に無慙《むざん》なる次第《しだい》なれども、自《おのず》から経世《けいせい》の一法《いっぽう》として忍《しの》んでこれを断行《だんこう》することなるべし。
 すなわち東洋諸国|専制流《せんせいりゅう》の慣手段《かんしゅだん》にして、勝氏のごときも斯《かか》る専制治風の時代に在《あ》らば、或は同様の奇禍《きか》に罹《かか》りて新政府の諸臣を警《いま》しむるの具《ぐ》に供せられたることもあらんなれども、幸《さいわい》にして明治政府には専制の君主なく、政権は維新功臣《いしんこうしん》の手に在《あ》りて、その主義とするところ、すべて文明国の顰《ひん》に傚《なら》い、一切万事|寛大《かんだい》を主として、この敵方の人物を擯斥《ひんせき》せざるのみか、一時の奇貨《きか》も永日の正貨《せいか》に変化し、旧幕府の旧風を脱《だっ》して新政府の新|貴顕《きけん》と為《な》り、愉快《ゆかい》に世を渡りて、かつて怪《あや》しむ者なきこそ古来|未曾有《みぞう》の奇相《きそう》なれ。
 我輩《わがはい》はこの一段に至りて、勝氏の私《わたくし》の為《た》めには甚《はなは》だ気の毒なる次第《しだい》なれども、聊《いささ》か所望《しょもう》の筋《すじ》なきを得ず。その次第《しだい》は前にいえるごとく、氏の尽力《じんりょく》を以て穏《おだやか》に旧政府を解《と》き、由《よっ》て以《もっ》て殺人|散財《さんざい》の禍《わざわい》を免《まぬ》かれたるその功は奇《き》にして大なりといえども、一方より観察を下《くだ》すときは、敵味方|相対《あいたい》して未《いま》だ兵を交《まじ》えず、早く自《みず》から勝算《しょうさん》なきを悟《さと》りて謹慎《きんしん》するがごとき、表面には官軍に向て云々《うんぬん》の口実ありといえども、その内実は徳川政府がその幕下《ばっか》たる二、三の強藩に敵するの勇気なく、勝敗をも試《こころ》みずして降参《こうさん》したるものなれば、三河武士《みかわぶし》の精神に背《そむ》くのみならず、我日本国民に固有《こゆう》する瘠我慢《やせがまん》の大主義を破《やぶ》り、以て立国《りっこく》の根本たる士気《しき》を弛《ゆる》めたるの罪は遁《のが》るべからず。一時の兵禍《へいか》を免《まぬ》かれしめたると、万世《ばんせい》の士気を傷《きず》つけたると、その功罪|相償《あいつぐな》うべきや。
 天下後世に定論もあるべきなれば、氏の為《た》めに謀《はか》れば、たとい今日の文明流に従って維新後《いしんご》に幸《さいわい》に身を全《まっと》うすることを得たるも、自《みず》から省《かえり》みて我《わが》立国《りっこく》の為《た》めに至大至重《しだいしちょう》なる上流士人の気風《きふう》を害《がい》したるの罪を引き、維新前後の吾身《わがみ》の挙動《きょどう》は一時の権道《けんどう》なり、権《か》りに和議《わぎ》を講じて円滑《えんかつ》に事を纏《まと》めたるは、ただその時の兵禍《へいか》を恐れて人民を塗炭《とたん》に救わんが為《た》めのみなれども、本来|立国《りっこく》の要は瘠我慢《やせがまん》の一義に在《あ》り、いわんや今後敵国|外患《がいかん》の変《へん》なきを期《き》すべからざるにおいてをや。かかる大切《たいせつ》の場合に臨《のぞ》んでは兵禍《へいか》は恐るるに足《た》らず、天下後世国を立てて外に交わらんとする者は、努※[#二の字点、1−2−22]《ゆめゆめ》吾《わが》維新《いしん》の挙動《きょどう》を学んで権道《けんどう》に就《つ》くべからず、俗にいう武士の風上《かざかみ》にも置かれぬとはす
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