瘠我慢の説
瘠我慢の説
福沢諭吉
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)立国《りっこく》
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(例)人民|相分《あいわか》れて
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(例)努※[#二の字点、1−2−22]《ゆめゆめ》
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立国《りっこく》は私《わたくし》なり、公《おおやけ》に非《あら》ざるなり。地球面の人類、その数億のみならず、山海《さんかい》天然《てんねん》の境界《きょうかい》に隔《へだ》てられて、各処《かくしょ》に群を成し各処に相分《あいわか》るるは止むを得ずといえども、各処におのおの衣食の富源《ふげん》あれば、これによりて生活を遂《と》ぐべし。また或は各地の固有に有余《ゆうよ》不足《ふそく》あらんには互にこれを交易《こうえき》するも可《か》なり。すなわち天与《てんよ》の恩恵《おんけい》にして、耕《たがや》して食い、製造して用い、交易《こうえき》して便利を達す。人生の所望《しょもう》この外にあるべからず。なんぞ必ずしも区々たる人為《じんい》の国を分《わかち》て人為の境界を定むることを須《もち》いんや。いわんやその国を分《わかち》て隣国と境界を争うにおいてをや。いわんや隣《となり》の不幸を顧《かえり》みずして自《みず》から利せんとするにおいてをや。いわんやその国に一個の首領《しゅりょう》を立て、これを君として仰《あお》ぎこれを主として事《つか》え、その君主のために衆人《しゅうじん》の生命財産を空《むなし》うするがごときにおいてをや。いわんや一国中になお幾多の小区域を分ち、毎区の人民おのおの一個の長者を戴《いただき》てこれに服従するのみか、つねに隣区と競争して利害を殊《こと》にするにおいてをや。
すべてこれ人間の私情に生じたることにして天然の公道にあらずといえども、開闢《かいびゃく》以来今日に至るまで世界中の事相《じそう》を観《み》るに、各種の人民|相分《あいわか》れて一群を成し、その一群中に言語文字を共にし、歴史|口碑《こうひ》を共にし、婚姻《こんいん》相通じ、交際相親しみ、飲食衣服の物、すべてその趣《おもむき》を同《おなじ》うして、自から苦楽《くらく》を共にするときは、復《ま》た離散《りさん》すること能わず。すなわち国を立てまた政府を設《もうく》る所以《ゆえん》にして、すでに一国の名を成すときは人民はますますこれに固着《こちゃく》して自他の分《ぶん》を明《あきらか》にし、他国他政府に対しては恰《あたか》も痛痒《つうよう》相《あい》感《かん》ぜざるがごとくなるのみならず、陰陽《いんよう》表裏《ひょうり》共に自家の利益《りえき》栄誉《えいよ》を主張してほとんど至らざるところなく、そのこれを主張することいよいよ盛なる者に附するに忠君《ちゅうくん》愛国《あいこく》等の名を以てして、国民最上の美徳と称するこそ不思議なれ。故に忠君愛国の文字は哲学流に解すれば純乎《じゅんこ》たる人類の私情《しじょう》なれども、今日までの世界の事情においてはこれを称して美徳といわざるを得ず。すなわち哲学の私情は立国の公道《こうどう》にして、この公道公徳の公認せらるるは啻《ただ》に一国において然《しか》るのみならず、その国中に幾多の小区域あるときは、毎区必ず特色の利害に制せられ、外に対するの私《わたくし》を以て内のためにするの公道と認めざるはなし。たとえば西洋各国|相対《あいたい》し、日本と支那|朝鮮《ちょうせん》と相接して、互に利害を異にするは勿論《もちろん》、日本国中において封建の時代に幕府を中央に戴《いただい》て三百藩を分つときは、各藩相互に自家の利害《りがい》栄辱《えいじょく》を重んじ一毫《いちごう》の微《び》も他に譲《ゆず》らずして、その競争の極《きょく》は他を損じても自から利せんとしたるがごとき事実を見てもこれを証すべし。
さて、この立国立政府の公道を行わんとするに当り、平時に在《あり》ては差《さ》したる艱難《かんなん》もなしといえども、時勢《じせい》の変遷《へんせん》に従《したがっ》て国の盛衰《せいすい》なきを得ず。その衰勢《すいせい》に及んではとても自家の地歩を維持するに足らず、廃滅《はいめつ》の数すでに明《あきらか》なりといえども、なお万一の僥倖《ぎょうこう》を期して屈することを為《な》さず、実際に力|尽《つ》きて然《しか》る後に斃《たお》るるはこれまた人情の然《しか》らしむるところにして、その趣を喩《たと》えていえば、父母の大病に回復の望なしとは知りながらも、実際の臨終に至るまで医薬の手当を怠《おこた》らざるがごとし。これも哲学流にていえば、等しく死する病人なれば、望なき回復を謀《はか》るがためいたずらに病苦《びょうく》を長くするよりも、モルヒネなど与えて臨終《りんじゅう》を安楽《あんらく》にするこそ智なるがごとくなれども、子と為《な》りて考うれば、億万中の一を僥倖《ぎょうこう》しても、故《ことさ》らに父母の死を促《うな》がすがごときは、情において忍《しの》びざるところなり。
左《さ》れば自国の衰頽《すいたい》に際し、敵に対して固《もと》より勝算《しょうさん》なき場合にても、千辛万苦《せんしんばんく》、力のあらん限りを尽《つく》し、いよいよ勝敗の極《きょく》に至りて始めて和を講ずるか、もしくは死を決するは立国の公道にして、国民が国に報ずるの義務と称すべきものなり。すなわち俗にいう瘠我慢《やせがまん》なれども、強弱|相対《あいたい》していやしくも弱者の地位を保つものは、単《ひとえ》にこの瘠我慢に依《よ》らざるはなし。啻《ただ》に戦争の勝敗のみに限らず、平生の国交際においても瘠我慢の一義は決してこれを忘るべからず。欧州にて和蘭《オランダ》、白耳義《ベルギー》のごとき小国が、仏独の間に介在《かいざい》して小政府を維持するよりも、大国に合併《がっぺい》するこそ安楽《あんらく》なるべけれども、なおその独立を張《はり》て動かざるは小国の瘠我慢にして、我慢《がまん》能《よ》く国の栄誉《えいよ》を保つものというべし。
我《わが》封建《ほうけん》の時代、百万石の大藩に隣《となり》して一万石の大名あるも、大名はすなわち大名にして毫《ごう》も譲《ゆず》るところなかりしも、畢竟《ひっきょう》瘠我慢の然《しか》らしむるところにして、また事柄《ことがら》は異なれども、天下の政権武門に帰《き》し、帝室《ていしつ》は有《あ》れども無《な》きがごとくなりしこと何百年、この時に当りて臨時《りんじ》の処分《しょぶん》を謀《はか》りたらば、公武合体《こうぶがったい》等種々の便利法もありしならんといえども、帝室にして能《よ》くその地位を守り幾艱難《いくかんなん》のその間にも至尊《しそん》犯《おか》すべからざるの一義を貫《つらぬ》き、たとえば彼《か》の有名なる中山大納言《なかやまだいなごん》が東下《とうか》したるとき、将軍家を目《もく》して吾妻《あずま》の代官と放言したりというがごとき、当時の時勢より見れば瘠我慢に相違《そうい》なしといえども、その瘠我慢《やせがまん》こそ帝室《ていしつ》の重きを成したる由縁《ゆえん》なれ。
また古来士風の美をいえば三河武士《みかわぶし》の右に出る者はあるべからず、その人々について品評すれば、文に武に智に勇におのおの長ずるところを殊《こと》にすれども、戦国割拠《せんごくかっきょ》の時に当りて徳川の旗下《きか》に属し、能《よ》く自他《じた》の分《ぶん》を明《あきらか》にして二念《にねん》あることなく、理にも非にもただ徳川家の主公あるを知《しり》て他を見ず、いかなる非運に際して辛苦《しんく》を嘗《なむ》るもかつて落胆《らくたん》することなく、家のため主公のためとあれば必敗必死《ひっぱいひっし》を眼前《がんぜん》に見てなお勇進《ゆうしん》するの一事は、三河武士全体の特色、徳川家の家風なるがごとし。これすなわち宗祖《そうそ》家康公《いえやすこう》が小身《しょうしん》より起《おこ》りて四方を経営《けいえい》しついに天下の大権を掌握《しょうあく》したる所以《ゆえん》にして、その家の開運《かいうん》は瘠我慢の賜《たまもの》なりというべし。
左《さ》れば瘠我慢の一主義は固《もと》より人の私情に出《いず》ることにして、冷淡《れいたん》なる数理より論ずるときはほとんど児戯《じぎ》に等しといわるるも弁解《べんかい》に辞《じ》なきがごとくなれども、世界古今の実際において、所謂《いわゆる》国家なるものを目的に定めてこれを維持《いじ》保存《ほぞん》せんとする者は、この主義に由《よ》らざるはなし。我封建の時代に諸藩の相互に競争して士気《しき》を養《やしな》うたるもこの主義に由り、封建すでに廃《はい》して一統の大日本帝国と為《な》り、さらに眼界を広くして文明世界に独立の体面を張らんとするもこの主義に由《よ》らざるべからず。
故に人間社会の事物今日の風にてあらん限りは、外面の体裁《ていさい》に文野の変遷《へんせん》こそあるべけれ、百千年の後に至るまでも一片《いっぺん》の瘠我慢は立国の大本《たいほん》としてこれを重んじ、いよいよますますこれを培養《ばいよう》してその原素の発達を助くること緊要《きんよう》なるべし。すなわち国家|風教《ふうきょう》の貴《たっと》き所以《ゆえん》にして、たとえば南宋の時に廟議《びょうぎ》、主戦《しゅせん》と講和《こうわ》と二派に分れ、主戦論者は大抵《たいてい》皆《みな》擯《しりぞ》けられて或《あるい》は身を殺したる者もありしに、天下後世の評論は講和者の不義を悪《にく》んで主戦者の孤忠《こちゅう》を憐《あわれ》まざる者なし。事の実際をいえば弱宋《じゃくそう》の大事すでに去り、百戦|必敗《ひっぱい》は固《もと》より疑うべきにあらず、むしろ恥《はじ》を忍《しの》んで一日も趙《ちょう》氏の祀《まつり》を存《そん》したるこそ利益なるに似たれども、後世の国を治《おさむ》る者が経綸《けいりん》を重んじて士気《しき》を養わんとするには、講和論者の姑息《こそく》を排《はい》して主戦論者の瘠我慢を取らざるべからず。これすなわち両者が今に至るまで臭芳《しゅうほう》の名を殊《こと》にする所以《ゆえん》なるべし。
然《しか》るに爰《ここ》に遺憾《いかん》なるは、我日本国において今を去ること二十余年、王政維新《おうせいいしん》の事《こと》起りて、その際不幸にもこの大切なる瘠我慢《やせがまん》の一大義を害したることあり。すなわち徳川家の末路に、家臣の一部分が早く大事の去るを悟《さと》り、敵に向《むかっ》てかつて抵抗を試みず、ひたすら和を講じて自《みず》から家を解《と》きたるは、日本の経済において一時の利益を成したりといえども、数百千年養い得たる我日本武士の気風《きふう》を傷《そこな》うたるの不利は決して少々ならず。得を以て損を償《つぐな》うに足らざるものというべし。
そもそも維新の事は帝室《ていしつ》の名義ありといえども、その実は二、三の強藩が徳川に敵したるものより外《ほか》ならず。この時に当りて徳川家の一類に三河《みかわ》武士の旧風《きゅうふう》あらんには、伏見《ふしみ》の敗余《はいよ》江戸に帰るもさらに佐幕《さばく》の諸藩に令して再挙《さいきょ》を謀《はか》り、再挙三拳ついに成《な》らざれば退《しりぞい》て江戸城を守り、たとい一日にても家の運命を長くしてなお万一を僥倖《ぎょうこう》し、いよいよ策|竭《つく》るに至りて城を枕に討死《うちじに》するのみ。すなわち前にいえるごとく、父母の大病に一日の長命を祈るものに異《こと》ならず。かくありてこそ瘠我慢の主義も全きものというべけれ。
然《しか》るに彼《か》の講和論者《こうわろんじゃ》たる勝安房《かつあわ》氏の輩《はい》は、幕府の武士用うべからずといい、薩長兵《さっちょうへい》の鋒《ほこさき》敵すべからずといい、社会の安寧《あんねい》害
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