するのみか、実際においてもその智謀《ちぼう》忠勇《ちゅうゆう》の功名《こうみょう》をば飽《あ》くまでも認《みとむ》る者なれども、凡《およ》そ人生の行路《こうろ》に富貴《ふうき》を取れば功名を失い、功名を全《まっと》うせんとするときは富貴を棄《す》てざるべからざるの場合あり。二氏のごときは正《まさ》しくこの局に当る者にして、勝氏が和議《わぎ》を主張して幕府を解《と》きたるは誠に手際《てぎわ》よき智謀《ちぼう》の功名なれども、これを解きて主家の廃滅《はいめつ》したるその廃滅の因縁《いんねん》が、偶《たまた》ま以《もっ》て一旧臣の為《た》めに富貴を得せしむるの方便《ほうべん》となりたる姿《すがた》にては、たといその富貴《ふうき》は自《みず》から求めずして天外より授《さず》けられたるにもせよ、三河武士《みかわぶし》の末流たる徳川一類の身として考うれば、折角《せっかく》の功名|手柄《てがら》も世間の見るところにて光を失わざるを得ず。
榎本氏が主戦論をとりて脱走《だっそう》し、遂《つい》に力|尽《つ》きて降《くだ》りたるまでは、幕臣《ばくしん》の本分《ほんぶん》に背《そむ》かず、忠勇の功名|美《び》なりといえども、降参《こうさん》放免《ほうめん》の後《のち》に更に青雲の志を発して新政府の朝《ちょう》に富貴《ふうき》を求め得たるは、曩《さき》にその忠勇を共にしたる戦死者|負傷者《ふしょうしゃ》より爾来《じらい》の流浪者《るろうしゃ》貧窮者《ひんきゅうしゃ》に至るまで、すべて同挙《どうきょ》同行《どうこう》の人々に対して聊《いささ》か慙愧《ざんき》の情なきを得ず。これまたその功名の価《あたい》を損ずるところのものにして、要するに二氏の富貴こそその身の功名を空《むなし》うするの媒介《ばいかい》なれば、今なお晩《おそ》からず、二氏共に断然《だんぜん》世を遁《のが》れて維新《いしん》以来の非を改《あらた》め、以《もっ》て既得《きとく》の功名を全《まっと》うせんことを祈るのみ。天下後世にその名を芳《ほう》にするも臭《しゅう》にするも、心事の決断|如何《いかん》に在《あ》り、力《つと》めざるべからざるなり。
然《しか》りといえども人心の微弱《びじゃく》、或は我輩《わがはい》の言《げん》に従うこと能《あた》わざるの事情もあるべし。これまた止《や》むを得ざる次第《しだい》なれども、兎《と》に角《かく》に明治年間にこの文字を記して二氏を論評したる者ありといえば、また以《もっ》て後世士人の風を維持《いじ》することもあらんか、拙筆《せっぴつ》また徒労《とろう》にあらざるなり。
底本:「明治十年丁丑公論・瘠我慢の説」講談社学術文庫、講談社
1985(昭和60)年3月10日第1刷発行
1998(平成10)年2月20日第10刷発行
底本の親本:「明治十年丁丑公論・瘠我慢の説」時事新報社
1901(明治34)年5月2日発行
初出:「時事新報」
1901(明治34)年1月1日発行
※誤り箇所は底本の親本にて確認しました。
※旧字の「竊・燈」は、底本のママとしました。
入力:kazuishi
校正:田中哲郎
2006年11月7日作成
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