い》は身を殺したる者もありしに、天下後世の評論は講和者の不義を悪《にく》んで主戦者の孤忠《こちゅう》を憐《あわれ》まざる者なし。事の実際をいえば弱宋《じゃくそう》の大事すでに去り、百戦|必敗《ひっぱい》は固《もと》より疑うべきにあらず、むしろ恥《はじ》を忍《しの》んで一日も趙《ちょう》氏の祀《まつり》を存《そん》したるこそ利益なるに似たれども、後世の国を治《おさむ》る者が経綸《けいりん》を重んじて士気《しき》を養わんとするには、講和論者の姑息《こそく》を排《はい》して主戦論者の瘠我慢を取らざるべからず。これすなわち両者が今に至るまで臭芳《しゅうほう》の名を殊《こと》にする所以《ゆえん》なるべし。
然《しか》るに爰《ここ》に遺憾《いかん》なるは、我日本国において今を去ること二十余年、王政維新《おうせいいしん》の事《こと》起りて、その際不幸にもこの大切なる瘠我慢《やせがまん》の一大義を害したることあり。すなわち徳川家の末路に、家臣の一部分が早く大事の去るを悟《さと》り、敵に向《むかっ》てかつて抵抗を試みず、ひたすら和を講じて自《みず》から家を解《と》きたるは、日本の経済において一時の利益
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