》こそ帝室《ていしつ》の重きを成したる由縁《ゆえん》なれ。
また古来士風の美をいえば三河武士《みかわぶし》の右に出る者はあるべからず、その人々について品評すれば、文に武に智に勇におのおの長ずるところを殊《こと》にすれども、戦国割拠《せんごくかっきょ》の時に当りて徳川の旗下《きか》に属し、能《よ》く自他《じた》の分《ぶん》を明《あきらか》にして二念《にねん》あることなく、理にも非にもただ徳川家の主公あるを知《しり》て他を見ず、いかなる非運に際して辛苦《しんく》を嘗《なむ》るもかつて落胆《らくたん》することなく、家のため主公のためとあれば必敗必死《ひっぱいひっし》を眼前《がんぜん》に見てなお勇進《ゆうしん》するの一事は、三河武士全体の特色、徳川家の家風なるがごとし。これすなわち宗祖《そうそ》家康公《いえやすこう》が小身《しょうしん》より起《おこ》りて四方を経営《けいえい》しついに天下の大権を掌握《しょうあく》したる所以《ゆえん》にして、その家の開運《かいうん》は瘠我慢の賜《たまもの》なりというべし。
左《さ》れば瘠我慢の一主義は固《もと》より人の私情に出《いず》ることにして、冷淡《れいたん》なる数理より論ずるときはほとんど児戯《じぎ》に等しといわるるも弁解《べんかい》に辞《じ》なきがごとくなれども、世界古今の実際において、所謂《いわゆる》国家なるものを目的に定めてこれを維持《いじ》保存《ほぞん》せんとする者は、この主義に由《よ》らざるはなし。我封建の時代に諸藩の相互に競争して士気《しき》を養《やしな》うたるもこの主義に由り、封建すでに廃《はい》して一統の大日本帝国と為《な》り、さらに眼界を広くして文明世界に独立の体面を張らんとするもこの主義に由《よ》らざるべからず。
故に人間社会の事物今日の風にてあらん限りは、外面の体裁《ていさい》に文野の変遷《へんせん》こそあるべけれ、百千年の後に至るまでも一片《いっぺん》の瘠我慢は立国の大本《たいほん》としてこれを重んじ、いよいよますますこれを培養《ばいよう》してその原素の発達を助くること緊要《きんよう》なるべし。すなわち国家|風教《ふうきょう》の貴《たっと》き所以《ゆえん》にして、たとえば南宋の時に廟議《びょうぎ》、主戦《しゅせん》と講和《こうわ》と二派に分れ、主戦論者は大抵《たいてい》皆《みな》擯《しりぞ》けられて或《ある
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