正直など記して、その公私の分界を吟味すれば、親愛、恭敬、孝悌は、私徳の誠なるものにして、忠信、礼義、廉潔、正直は、公徳の部に属すべし。けだし忠信以下の箇条も固《もと》より家内に行わるるといえども、あたかも親愛、恭敬、孝悌の空気の中に包羅《ほうら》せられて特《こと》に形を現わすを得ず。その行わるるや不規則なるが如くにして、ただ精神を誠の一点に存し、以て幸福円満欠くることなきを得るのみ。然《しか》るに戸外の公徳は、ややもすれば道理に入ること多くして、冷淡無情に陥らんとするの弊なきにあらず。最も憂うべき所にして、ある人の説に十全の正直は十全の親愛と両立すべからずといいしも、この辺の事情を極言したるものならん。古今の道徳論者が世人の薄徳《はくとく》を歎き、未だ誠に至らずなど言うは、その言《げん》不分明にして徳の公私を分かたずといえども、意のある所を窺《うかが》えば、公徳の働きに情を含むこと未だ足らずして、私徳の円満なるが如くならずというの意味を見るべし。されば今、公徳の美を求めんとならば、先ず私徳を修めて人情を厚うし、誠意誠心を発達せしめ、以て公徳の根本を固くするの工風《くふう》こそ最第一《さいだいいち》の肝要なれ。即ち家に居《お》り家族相互いに親愛恭敬して人生の至情を尽し、一言一行、誠のほかなくしてその習慣を成し、発して戸外の働きに現われて公徳の美を円満ならしむるものなり。古人の言に、忠臣は孝子の門に出《い》ずといいしも、決して偶然にあらず。忠は公徳にして孝は私徳なり、その私《し》、修まるときは、この公《こう》、美ならざらんと欲するも得《う》べからざるなり。
 然《しか》るに我輩が古今和漢の道徳論者に向かって不平なるは、その教えの主義として第一に私徳公徳の区別を立てざるにあり。第二には、仮令《たと》え不言《ふげん》の間に自《おの》ずから区別する所ありとするも、その教えの方法に前後本末を明言せずして、時としては私徳を説き、また時としては公徳を勧め、いずれか前、いずれか後なるを明らかにせざるがために、後進の学者をして方向を誤らしむるにあり。然《し》かのみならず、その教えの主義たるや、ややもすれば政治論に混同して重きを政治に置き、これに関する徳義は固《もと》より公徳なるが故に、かえって私徳を後にして公徳を先にするものさえなきにあらず。例えば忠義正直というが如き、政治上の美徳にして、甚だ大切なるものなれども、人に教うるに先ずこの公徳を以てして、居家の私徳を等閑《なおざり》にするにおいては、あたかも根本の浅き公徳にして、我輩は時にその動揺なきを保証する能《あた》わざるものなり。
 そもそも一国の社会を維持して繁栄幸福を求めんとするには、その社会の公衆に公徳なかるべからず。その公徳をして堅固ならしめんとするには、根本を私徳の発育に取らざるべからず。即ち国の本は家にあり。良家の集まる者は良国にして、国力の由《よ》って以《もっ》て発生する源は、単に家にあって存すること、更に疑うべきにあらず。然《しか》り而《しこう》してその家の私徳なるものは、親子・兄弟姉妹、団欒《だんらん》として相親しみ、父母は慈愛厚くして子は孝心深く、兄弟姉妹相助けて以て父母の心身の労を軽くする等の箇条にして、能《よ》くこの私徳を発達せしむるその原因は、家族の起源たる夫婦の間に薫《くん》ずる親愛恭敬の美にあらざるはなし。
 およそ古今世界に親子不和といい兄弟姉妹相争うというが如き不祥の沙汰《さた》少なからずして、当局者の罪に相違はなけれども、一歩を進めて事の原因を尋ぬれば、その父母たる者が夫婦の関係を等閑《なおざり》にしたるにあり。なお進んで吟味を遠くすれば、その父母の父母たる祖父母より以上|曾祖《そうそ》玄祖《げんそ》に至るまでも罪を免るべからず。前節にもいえる如く、人の心の不徳は身の病に異ならず、病毒の力|能《よ》く四、五世に遺伝するものなれば、不徳の力もまた四、五世に伝えて禍《わざわい》せざるを得ず。されば公徳の根本は一家の私徳にありて、その私徳の元素は夫婦の間に胚胎《はいたい》すること明々白々、我輩の敢《あ》えて保証する所のものなれば、男女両性の関係は立国の大本、禍福の起源として更に争うべからず。今日吾々日本国民の形体は、伊奘諾・伊奘冊|二尊《にそん》の遺体にして、吾々の依《よ》って以《もっ》て社会を維持する私徳公徳もまた、その起源を求むれば、二尊夫婦の間に行われたる親愛恭敬の遺徳なりと知るべし。
 夫婦親愛恭敬の徳は、天下万世百徳の大本《たいほん》にして更に争うべからざるの次第は、前《ぜん》既にその大意を記《しる》して、読者においても必ず異議はなかるべし。そもそも我輩がここに敬の字を用いたるは偶然にあらず。男女肉体を以て相《あい》接《せっ》するものなれば、仮令《たと》え
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