いかなる夫婦にても一時の親愛なきを得ず。動物たる人類の情において然《しか》りといえども、人類をして他の動物の上に位《くらい》して万物の霊たらしむる所以《ゆえん》のものは、この親愛に兼ねて恭敬の誠あるに由《よ》るのみ。これを通俗にいえば、夫婦の間、相互いに隔てなくして可愛がるとまでにては未だ禽獣と区別するに足らず。一歩を進め、夫婦互いに丁寧にし大事にするというて、始めて人の人たる所を見るに足るべし。即ち敬の意なり。
然らば即ち敬愛は夫婦の徳にして、この徳義を修めてこれを今日の実際に施すの法|如何《いかん》と尋ぬるに、夫婦利害を共にし苦楽喜憂を共にするは勿論、あるいは一方の心身に苦痛の落ち来《きた》ることもあれば、人力の届く限りはその苦痛を分担するの工風《くふう》を運《めぐ》らさざるべからず。いわんや己れの欲せざる所を他の一方に施すにおいてをや。ゆめゆめあるまじき事にして、徹頭徹尾、恕《じょ》の一義を忘れず、形体《からだ》こそ二個《ふたり》に分かれたれども、その実は一身同体と心得て、始めて夫婦の人倫を全うするを得べし。故に夫婦家に居《お》るは人間の幸福快楽なりというといえども、本来この夫婦は二個の他人の相《あい》合《お》うたるものにして、その心はともかくも、身の有様《ありさま》の同じかるべきにあらず。夫婦おのおのその親戚を異《こと》にし、その朋友を異にし、これらに関係する喜憂は一方の知らざる所なれども、既に一身同体とあれば、その喜憂を分かたざるを得ず。また平生《へいぜい》の衣食住についても、おのおの好悪《こうお》する所なきを期すべからずといえども、互いに忍んでその好悪に従わざるべからず。またあるいは一方の病気の如き、固《もと》より他の一方に痛痒《つうよう》なけれども、あたかもその病苦を自分の身に引受くるが如くして、力のあらん限りにこれを看護せざるべからず。良人《りょうじん》五年の中風症《ちゅうふうしょう》、死に至るまで看護怠らずといい、内君《ないくん》七年のレウマチスに、主人は家業の傍《かたわ》らに自ら薬餌《やくじ》を進め、これがために遂に資産をも傾けたるの例なきにあらず。
これらの点より見れば、夫婦同室は決して面白きものにあらず。独身なれば、親戚朋友の附合《つきあい》もただ一方にして余計の心配なく、衣食住の物とて自分|一人《ひとり》の気に任せて不自由なく、病気も一身の病気にして他人の病を憂うるに及ばざるに、ただ夫婦の約束したるがために、あたかも一生の苦労を二重にしたる姿となり、一人にして二人前の勤めを勤むるの責《せめ》に当たるは不利益なるが如くなれども、およそ人間世界において損益苦楽は常に相《あい》伴《ともの》うの約束にして、俗にいわゆる丸儲《まるもう》けなるものはなきはずなり。故に夫婦家に居て互いに苦労を共にするは、一方において二重の苦労に似たれども、その苦労の代りには一人の快楽を二人の間に共にして、即ち二重の快楽なれば、つまり損亡《そんもう》とてはなくして苦楽|相《あい》償《つぐの》い、平均してなお余楽《よらく》あるものと知るべし。
されば夫婦家に居《お》るは必ずしも常に快楽のみに浴すべきものにあらず、苦楽相平均して幸いに余楽を楽しむものなれども、栄枯無常の人間世界に居れば、不幸にしてただ苦労にのみ苦しむこともあるべき約束なりと覚悟を定めて、さて一夫多妻、一婦|多男《ただん》は、果たして天理に叶《かな》うか、果たして人事の要用、臨時の便利にして害なきものかと尋ぬるに、我輩は断じて否《いな》と答えざるを得ず。天の人を生ずるや男女同数にして、この人類は元《もと》一対の夫婦より繁殖したるものなれば、生々《せいせい》の起原に訴うるも、今の人口の割合に問うも、多妻多男は許すべからず。然らば人事の要用、臨時の便利において如何《いかん》というに、人間世界の歳月を短きものとし、人生を一代限りのものとし、あたかも今日の世界を挙げて今日の人に玩弄《がんろう》せしめて遺憾なしとすれば、多妻多男の要用便利もあるべし。世事《せじ》繁多《はんた》なれば一時夫婦の離れ居ることもあり、また時としては病気災難等の事も少なからず。これらの時に当たっては夫婦一対に限らず、一夫|衆婦《しゅうふ》に接し、一婦|衆男《しゅうだん》に交わるも、木石《ぼくせき》ならざる人情の要用にして、臨時非常の便利なるべしといえども、これは人生に苦楽相伴うの情態を知らずして、快楽の一方に着眼し、いわゆる丸儲けを取らんとする自利の偏見にして、今の社会を害するのみならず、また後世のために謀《はか》りて許すべからざる所のものなり。
男女にして一度《ひとた》びこれを犯すときは、既に夫婦の大倫を破り、恕《じょ》の道を忘れて情を痛ましめたるものにして、敬愛の誠はこの時限りに断絶せざるを得ず
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