日本男子論
福沢諭吉

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)専《もっぱ》ら

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)夫婦|家《いえ》に居て
−−

 明治十八年夏の頃、『時事新報』に「日本婦人論」と題して、婦人の身は男子と同等たるべし、夫婦|家《いえ》に居て、男子のみ独り快楽を専《もっぱ》らにし独り威張るべきにあらず云々《うんぬん》の旨を記《しる》して、数日の社説に掲げ、また十九年五月の『時事新報』「男女交際論」には、男女両性の間は肉交のみにあらず、別に情交の大切なるものあれば、両性の交際自由自在なるべき道理を陳《の》べたるに、世上に反対論も少なくして鄙見《ひけん》の行われたるは、記者の喜ぶ所なれども、右の「婦人論」なり、また「交際論」なり、いずれも婦人の方を本《もと》にして論を立てたるものにして、今の婦人の有様を憐《あわ》れみ、何とかして少しにてもその地位の高まるようにと思う一片の婆心《ばしん》より筆を下《くだ》したるが故に、その筆法は常に婦人の気を引き立つるの勢いを催して、男子の方に筆の鋒《ほこさき》の向かわざりしは些《ち》と不都合にして、これを譬《たと》えば、ここに高きものと低きものと二様ありて、いずれも程好《ほどよ》き中《ちゅう》を得ざるゆえ、これを矯《た》め直《なお》さんとして、ひたすらその低きものを助け、いかようにもしてこれを高くせんとて、ただ一方に苦心するのみにして、他の一方の高きに過ぐるものを低くせんとするの手段に力を尽さざりしものの如し。物の低きに過ぐるは固《もと》より宜《よろ》しからずといえども、これを高くして高きに過ぐるに至るが如きは、むしろ初めのままに捨て置くに若《し》かず。故に他の一方について高きものを低くせんとするの工風《くふう》は随分|難《かた》き事なれども、これを行《おこの》うて失策なかるべきが故に、この一編の文においては、かの男子の高き頭《ず》を取って押さえて低くし、自然に男女両性の釣合をして程好《ほどよ》き中《ちゅう》を得せしめんとの腹案を以て筆を立て、「日本男子論」と題したるものなり。
 世に道徳論者ありて、日本国に道徳の根本標準を立てんなど喧《かまびす》しく議論して、あるいは儒道に由《よ》らんといい、あるいは仏法に従わんといい、あるいは耶蘇《ヤソ》教を用いんというものあれば、また一方にはこれを悦《よろこ》ばず、儒仏耶蘇、いずれにてもこれに偏するは不便なり、つまり自愛に溺《おぼ》れず、博愛に流れず、まさにその中道を得たる一種の徳教を作らんというものあり。これらの言を聞けば一応はもっとも至極にして、道徳論に相違はなけれども、その目的とする所、ややもすれば自身に切《せつ》ならずして他に関係するものの如し。一身の私徳を後《のち》にして、交際上の公徳を先にするものの如し。即ち家に居《お》るの徳義よりも、世に処するの徳義を専《もっぱ》らにするものの如し。この一点において我輩が見る所を異《こと》にすると申すその次第は、敢《あ》えて論者の道徳論を非難するにはあらざれども、前後緩急の別について問う所のものなきを得ざるなり。
 世界|開闢《かいびゃく》の歴史を見るに、初めは独化《どっか》の一人《いちにん》ありて、後《のち》に男女夫婦を生じたりという。我が日本において、国常立尊《くにのとこたちのみこと》の如きは独化の神にして、伊奘諾尊《いざなぎのみこと》、伊奘冊尊《いざなみのみこと》は則《すなわ》ち夫婦の神なり。西洋においても、先ずエデンの園に現われたる人はアダムにして、後にイーブなる女性を生じ、夫婦の道始めて行われたるものなり。さてこの独化《どっか》独生《どくせい》の人が独り天地の間に居《お》るときに当たりては、固《もと》より道徳の要《よう》あるべからず。あるいは謹《つつし》んで天に事《つか》うるなどのこともあらんなれども、これは神学の言にして、我輩が通俗の意味に用うる道徳は、これを修めんとして修むべからず、これを破らんとして破るべからず、徳もなく不徳もなき有様なれども、後《のち》にここに配偶を生じ、男女|二人《ににん》相《あい》伴《ともの》うて同居するに至り、始めて道徳の要用を見出したり。その相伴うや、相共に親愛し、相共に尊敬し、互いに助け、助けられ、二人《ににん》あたかも一身同体にして、その間に少しも私《わたくし》の意を挟《さしはさ》むべからず。即ち男女|居《きょ》を同じうするための要用にして、これを夫婦の徳義という。もしも然《しか》らずして、相互いに疎《うと》んじ相互いに怨《うら》んでその情を痛ましむるが如きありては、配偶の大倫《たいりん》を全うすること能《あた》わずして、これをその人の不徳と名づけざるを得ず。我輩|窃《ひそ》かに案ずるに、かの伊奘諾尊、伊奘冊尊、
次へ
全15ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
福沢 諭吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング