またはアダム、イーブの如きも、必ずこの夫婦の徳義を修めて幸福円満なりしことならんと信ずるのみ。
 されば人生の道徳は夫婦の間に始まり、夫婦以前道徳なく、夫婦以後始めてその要を感ずることなれば、これを百徳の根本なりと明言して決して争うべからざるものなり。既に夫婦を成してここに子あり、始めて親子・兄弟姉妹の関係を生じ、おのおのその関係について要用の徳義あり。慈といい、孝といい、悌《てい》といい、友《ゆう》というが如き、即ちこれにして、これを総称して人生|居家《きょか》の徳義と名づくといえども、その根本は夫婦の徳に由《よ》らざるはなし。如何《いかん》となれば、夫婦|既《すで》に配偶の大倫を紊《みだ》りて先ず不徳の家を成すときは、この家に他の徳義の発生すべき道理あらざればなり。近く有形のものについて確かなる証拠を示さんに、両親の身体に病あればその病毒は必ず子孫に遺伝するを常とす、人の普《あまね》く知る所にして、夫婦の病は家族百病の根本なりといわざるを得ず。有形の病毒にして斯《かく》の如くなれば、無形の徳義においてもまた斯の如くなるべきは、誠に睹易《みやす》き道理にして、これに疑いを容《い》るる者はなかるべし。病身なる父母は健康なる児を生まず、不徳の家には有徳なる子女を見ず。有形無形その道理は一なり。あるいは夫婦不徳の家に孝行の子女を生じ、兄弟姉妹|団欒《だんらん》として睦《むつ》まじきこともあらば、これは不思議の間違いにして、稀《まれ》に人間世界にあるも、常に然《しか》るを冀望《きぼう》すべからざる所のものなり。世間あるいは強いてこれを望む者もあるべしといえども、その迂闊《うかつ》なるは病父母をして健康無事の子を生ましめんとするに異ならず、我輩の知らざる所なり。古人の言に孝は百行《ひゃっこう》の本《もと》なりという。孝行は人生の徳義の中にて至極大切なるものにして、我輩も固《もと》より重んずる所のものなりといえども、世界開闢|生々《せいせい》の順序においても、先ず夫婦を成して然る後に親子あることなれば、孝徳は第二に起こりたるものにして、これに先だつに夫婦の徳義あるを忘るべからず。故に今|仮《かり》に古人の言に従って孝を百行の本とするも、その孝徳を発生せしむるの根本は、夫婦の徳心に胚胎《はいたい》するものといわざるを得ず。男女の関係は人生に至大《しだい》至重《しちょう》の事なり。
 夫婦|家《いえ》に居て親子・兄弟姉妹の関係を生じ、その関係について徳義の要用を感じ、家族おのおのこれを修めて一家の幸福いよいよ円満いよいよ楽し。即ち居家《きょか》の道徳なれども、人間|生々《せいせい》の約束は一家族に止《とど》まらず、子々孫々次第に繁殖すれば、その起源は一対の夫婦に出《いず》るといえども、幾百千年を経《ふ》るの間には遂に一国一社会を成すに至るべし。既に社会を成すときは、朋友の関係あり、老少の関係あり、また社会の群集を始末するには政府なかるべからざるが故に、政府と人民との関係を生じ、その仕組みには君臣の分を定むるもあり、あるいは君臣の名なきもあれども、つまり治むる者と治めらるる者との関係にして、その意味は大同小異のみ。斯《か》く広き社会の中に居て、一人と一人との間、また一種族と一種族との間に様々の関係あることなれば、その関係について、それぞれ守る所の徳義なかるべからず。即ち朋友に信といい、長幼に序といい、君臣または治者・被治者の間に義というが如く、大切なる箇条あり。これを人生|戸外《こがい》の道徳という。即ち家の外の道徳という義にして、家族に縁なく、広く社会の人に交わるに要用なるものにして、かの居家の道徳に比すれば、その働くところを異にするが故に、その重んずる所もまた自《おの》ずから相《あい》異《こと》ならざるを得ず。
 例えば私有の権というが如きは、戸外において最も大切なる箇条にして、これを犯すものは不徳のみならず、冷淡無情なる法律においても深く咎《とが》むる所なれども、一歩を引いて家の内に入れば甚だ寛《ゆるや》かにして、夫婦親子の間に私有を争うものも少なし。家の内には情を重んじて家族相互いに優しきを貴《たっと》ぶのみにして、時として過誤《あやまり》失策《しくじり》もあり、または礼を欠くことあるもこれを咎めずといえども、戸外にあっては過誤も容易に許されず、まして無礼の如きは、他の栄誉を害するの不徳として、世間の譏《そし》りを免《まぬか》るべからず。これを要するに、戸外の徳は道理を主とし、家内の徳は人情を主とするものなりというて可ならん。即ち公徳私徳の名ある所以《ゆえん》にして、その分界《ぶんかい》明白なれば、これを教うるの法においてもまた前後本末の区別なかるべからざるなり。
 例えば支那流に道徳の文字を並べ、親愛、恭敬、孝悌、忠信、礼義、廉潔、
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