ぎょく》もただならざる貴重の身にして自らこれを汚《けが》し、一点の汚穢《おわい》は終身の弱点となり、もはや諸々《もろもろ》の私徳に注意するの穎敏《えいびん》を失い、あたかも精神の痲痺《まひ》を催してまた私権を衛《まも》るの気力もなく、漫然《まんぜん》世と推移《おしうつ》りて、道理上よりいえば人事の末とも名づくべき政事政談に熱するが如き、我輩は失敬ながら本《もと》を知らずして末《すえ》に走るの人と評せざるを得ざるなり。
然《し》かのみならず国の徳義の一般に上進すると共に、品行論はいよいよ穎敏《えいびん》となり、天下後世の談にあらずして、いやしくも不品行者とあれば今日の社会に許されざるを常とす。試みに見るべし、有名なる英国の政治家チャールス・ヂルク氏は、誠に疑わしき艶罪《えんざい》(ある人の説く所に拠《よ》れば全く無根の冤《えん》なりともいう)を以て政治社会を擯《しりぞ》けられたり。我輩はもとより氏に私《わたくし》の縁あらざれば、その人の幸不幸についても深く喜憂するにはあらざれども、ただこの一事を見て、英国政治社会一般の徳風を窺《うかが》い知るのみ。即ち、かの政治社会は潔清《けっせい》無垢《むく》にして、一点の汚痕《おこん》を留《とど》めざるものというべし。斯《か》くありてこそ一国の政治社会とも名づくべけれ。その士気の凜然《りんぜん》として、私《し》に屈せず公《こう》に枉《ま》げず、私徳私権、公徳公権、内に脩《おさ》まりて外に発し、内国の秩序、斉然巍然《せいぜんぎぜん》として、その余光を四方に燿《かがや》かすも決して偶然にあらず。我輩は、我が政治社会の徳義をして先ず英国の如くならしめ、然る後に実際の政事政談に及ばんことを欲するものなり。
外国と交際を開きて独立国の体面を張らんとするには、虚実両様の尽力なかるべからず。殖産工商の事を勉めて富国の資を大にし、学問教育の道を盛んにして人文の光を明らかにし、海陸軍の力を足して護国の備えを厚うするが如き、実際直接の要用なれども、内外人民の交際は甚だ繁忙多端にして、外国人が我が日本国の事情を詳《つまび》らかにせんとするは、容易なることにあらざるが故に、彼らをして我が真面目《しんめんもく》を知らしめんとするには、事の細大に論なく、仮令《たと》え無用に属する外見の虚飾にても、先ずその形を示して我を知るの道を開くこと甚だ緊要なりとす。即ち我が国衣食住の有様は云々《しかじか》にして習俗宗教は斯《かく》の如しなどと、これを示しこれを語りて、時としてはことさらにその外面を装《よそお》うて体裁を張るが如き、これなり。例えば今日の実際において、吾人の家に外国人の来《きた》るあれば、先ずこれを珍客として様々に待遇の備えを設け、とにかくに見苦しからぬようにと心配するは人情の常なり。また、これを大にして都鄙《とひ》の道路橋梁、公共の建築等に、時としては実用のほかに外見を飾るものなきにあらず。あるいは近来東京などにて交際のいよいよ盛んにして、遂に豪奢《ごうしゃ》分外の譏《そし》りを得るまでに至りしも、幾分か外国人に対して体裁云々の意味を含むことならん。一概にこれを評すれば無益の虚飾なるに似たれども、他人をして我が真実を知らしむるは甚だ易《やす》からざるが故に、先ず虚《きょ》より導きて実《じつ》に入らしむる方便なりといえば、強《あなが》ち咎《とが》むべきにもあらず。その虚実、要不要の論はしばらく擱《さしお》き、我が日本国人が外国交際を重んじてこれを等閑《とうかん》に附せず、我が力のあらん限りを尽して、以て自国の体面を張らんとするの精神は誠に明白にして、その愛国の衷情《ちゅうじょう》、実際の事跡に現われたるものというべし。
然るに、我輩が年来の所見を以ていかように判断せんとするも説《せつ》を得ざるその次第は、我が国人が斯《か》くまでに力を尽して外交を重んじ、ただに事実に国の富強文明を謀《はか》るのみならず、外面の体裁虚飾に至るまでも、専《もっぱ》ら西洋流の文明開化に倣《なら》わんとして怠ることなく、これを欣慕《きんぼ》して二念なき精神にてありながら、独りその内行《ないこう》の問題に至りては、全く開明の主義を度外に放棄して、純然たる亜細亜《アジア》洲の旧慣に従い、居然《きょぜん》自得《じとく》して眼中また西洋なきが如くなるの一事なり。元来西洋の人は我が日本の事情に暗くして、ややもすれば不都合千万なる謬見《びゅうけん》を抱く者少なからず。就中《なかんずく》彼らは耶蘇《ヤソ》教の人なるが故に、己れの宗旨に同じからざる者を見れば、千百の吟味|詮索《せんさく》は差置《さしお》き、一概にこれを外教人《がいきょうじん》と称して、何となく嫌悪の情を含み、これがために双方の交情を妨ぐること多きは、誠に残念なる次第にして、我輩は常にそ
前へ
次へ
全15ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
福沢 諭吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング