権の思想の発生する事情は種々様々なれども、最第一《さいだいいち》の原因は、本人の自ら信じ自ら重んずるの心にあって存するものと知るべし。即ち我が徳義を円満無欠の位に定め、一身の尊《たっと》きこと玉璧《ぎょくへき》もただならず、これを犯さるるは、あたかも夜光の璧《たま》に瑕瑾《きず》を生ずるが如き心地して、片時も注意を怠《おこた》ることなく、穎敏《えいびん》に自ら衛《まも》りて、始めて私権を全うするの場合に至るべし。されば今、私権を保護するは全く法律上の事にして、徳義には縁なきものの如くに見ゆれども、元これを保護せんとするの思想は、円満無欠なる我が身に疵《きず》つくるを嫌うの一念より生ずるものなれば、いやしくも内に自ら省みて疚《やま》しきものあるにおいては、その思想の発達、決して十分なるを得《う》べからず。如何《いかん》となれば本人は元来|疵《きず》持つ身にして、その気|既《すで》に餒《う》えたるが故に、大節に臨んで屈することなきを得ず。即ち人心の働きの定則として、一方に本心を枉《ま》げて他の一方にこれを伸ばすの道理あらざればなり。私徳を修めて身を潔清《けっせい》の位《くらい》に置くと、私権を張りて節を屈せざると、二者その趣を殊《こと》にするが如くなれども、根本の元素は同一にして、私徳私権|相《あい》関《かん》し、徳は権の質《しつ》なりというべし。試みにこれを歴史に徴するに、義気|凜然《りんぜん》として威武も屈する能《あた》わず富貴も誘《いざの》う能わず、自ら私権を保護して鉄石の如くなる士人は、その家に居《お》るや必ず優しくして情に厚き人物ならざるはなし。即ち戸外の義士は家内の好主人たるの実《じつ》を見るべし。いかなる場合にも放蕩《ほうとう》無情、家を知らざるの軽薄児が、能《よ》く私権のために節を守りて義を全うしたるの例は、我輩の未だ聞かざる所なり。
窃《ひそ》かに世情を視《み》るに、近来は政治の議論|漸《ようや》く喧《かまびす》しくして、社会の公権即ち政権の受授につき、これを守らんとする者もまた取らんとする者も、頻《しき》りに熱心して相争うが如くなるは至極当然の次第にして、文明の国民たる者は国政に関すべき権利あるが故に、これを争うも可なりといえども、前にいえる如く、この公共の政権を守り、またこれを得んとするには、先ず一身の私権を固くすること肝要にして、その私権を固くせんとするには私徳を脩《おさ》めざるべからざるの道理も、既に明白なりとして、さて今日の実際において、我が日本国の政治家はいかなる種族の人にして、その私徳の位《くらい》は如何《いかん》と尋ぬるに、外面より見て人品はいずれも皆《みな》中等以上の種族なれども、特別に有徳の君子のみにあらず。その智識聞見は、あるいは西洋流の文明に近き人あるも、徳教の一段に至り特に出色の美なきは、我輩の遺憾に堪えざる所なり。文明の士人|心匠《しんしょう》巧みにして、自家の便利のためには、時に文林儒流の磊落《らいらく》を学び、軽躁浮薄《けいそうふはく》、法外なる不品行を犯しながら、君子は細行《さいこう》を顧みずなど揚言して、以てその不品行を瞞着《まんちゃく》するの口実に用いんとする者なきにあらず。けだし支那流にいう磊落とはいかなる意味か、その吟味はしばらく擱《さしお》き、今日の処にては、磊落と不品行と、字を異にして義を同じうし、磊々落々《らいらいらくらく》は政治家の徳義なりとて、長老その例を示して少壮これに傚《なら》い、遂に政治社会一般の風を成し、不品行は人の体面を汚《けが》すに足らざるのみならず、最も磊落、最も不品行にして始めて能《よ》く他を圧倒するに足るものの如し。
そもそも内行の不取締は法律上における破廉恥《はれんち》などとは趣を異《こと》にして、直ちに咎《とが》むべき性質のものにあらず。また人の口にし耳にするを好まざる所のものなれば、ややもすれば不知不識《しらずしらず》の際にその習俗を成しやすく、一世を過ぎ二世を経《ふ》るのその間には、習俗遂にあたかもその時代の人の性となり、また挽回すべからざるに至るべし。往古、我が王朝の次第に衰勢に傾きたるも、在朝の群臣、その内行を慎まずして私徳を軽んじ、内にこれを軽んじて外に公徳の大義を忘れ、その終局は一身の私権、戸外の公権をも併《あわ》せて失い尽したるものならんのみ。されば今日の政治家が政事に熱心するも、単に自身一時の富貴のためにあらず、天下後世のために、国民の私権を張り公権を伸ばすの道を開かんとするの趣意にこそあれば、後の世の政治社会に宜《よろ》しからざる先例を遺《のこ》すは、必ず不本意なることならん。もしもその本心に問うて慊《こころよ》からざることあらば、仮令《たと》え法律上に問うものなきも、何ぞ自ら省みて、これを今日に慎まざるや。金玉《きん
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