るその中に居て独り寡慾《かよく》なるが如き、詐偽《さぎ》の行わるる社会に独り正直なるが如き、軽薄無情の浮世に独り深切《しんせつ》なるが如き、いずれも皆抜群の嗜《たしな》みにして、自信自重の元素たらざるはなし。如何《いかん》となれば、書生の勉強、僧侶の眠食は身体の苦痛にして、寡慾、正直、深切の如きは精神の忍耐、即ち一方よりいえばその苦痛なればなり。
 されば私徳を大切にするその中についても、両性の交際を厳にして徹頭徹尾|潔清《けっせい》の節を守り、俯仰《ふぎょう》天地に愧《は》ずることなからんとするには、人生甚だ長くしてその間に千種万様の事情あるにもかかわらず、自ら血気を抑えて時としては人の顔色《がんしょく》をも犯し、世を挙《こぞ》って皆酔うの最中、独り自ら醒《さ》め、独行勇進して左右を顧みざることなれば、随分容易なる脩業《しゅぎょう》にあらず。即ち木石《ぼくせき》ならざる人生の難業ともいうべきものにして、既にこの業を脩《おさ》めて顧みて凡俗世界を見れば、腐敗の空気充満して醜に堪えず。無知無徳の下等社会はともかくも、上流の富貴《ふうき》または学者と称する部分においても、言うに忍びざるもの多し。人間の大事、社会の体面のためと思えばこそ、敢《あ》えてこれを明言する者なけれども、その実は万物の霊たるを忘れて単に獣慾の奴隷たる者さえなきにあらず。
 いやしくも潔清《けっせい》無垢《むく》の位《くらい》に居《お》り、この腐敗したる醜世界を臨《のぞ》み見て、自ら自身を区別するの心を生ぜざるものあらんや。僅《わず》かに資産の厚薄、才学の深浅を以てなおかつ他と伍《ご》をなすを屑《いさぎよ》しとせず。いわんや人倫の大本、百徳の源たる男女の関係につき、潔不潔を殊《こと》にするにおいてをや。他の醜物を眼下に視《み》ることなからんと欲するも得《う》べからず。即ち我が精神を自信自重の高処に進めたるものにして、精神|一度《ひとた》び定まるときは、その働きはただ人倫の区域のみに止《とど》まらず、発しては社会交際の運動となり、言語応対の風采となり、浩然《こうぜん》の気《き》外に溢《あふ》れて、身外の万物恐るるに足るものなし。談笑|洒落《しゃらく》・進退自由にして縦横|憚《はばか》る所なきが如くなれども、その間に一点の汚痕《おこん》を留《とど》めず、余裕|綽々然《しゃくしゃくぜん》として人の情を痛ましむることなし。けだし潔清無垢の極はかえって無量の寛大となり、浮世の百汚穢《ひゃくおわい》を容《い》れて妨げなきものならんのみ。これを、かの世間の醜行男子が、社会の陰処《いんしょ》に独り醜を恣《ほしいまま》にするにあらざれば同類一場の交際を開き、豪遊と名づけ愉快と称し、沈湎《ちんめん》冒色《ぼうしょく》勝手次第に飛揚して得々《とくとく》たるも、不幸にして君子の耳目に触るるときは、疵《きず》持つ身の忽《たちま》ち萎縮して顔色を失い、人の後《しりえ》に瞠若《どうじゃく》として卑屈|慚愧《ざんき》の状を呈すること、日光に当てられたる土鼠《もぐら》の如くなるものに比すれば、また同日の論にあらざるなり。
 近来世間にいわゆる文明開化の進歩と共に学術技芸もまた進歩して、後進の社会に人物を出《いだ》し、また故老の部分においても随分開明説を悦《よろこ》んで、その主義を事に施さんとする者あるは祝すべきに似たれども、開明の進歩と共に内行の不取締もまた同時に進歩し、この輩が不文《ふぶん》野蛮と称して常に愍笑《びんしょう》する所の封建時代にありても、決して許されざりし不品行を今日に犯し、恬《てん》として愧《は》ずるを知らざるものなきにあらず。文明進歩して罪を野蛮人に得る者というべし。学術技芸|果《は》たして何の効あるべきや。我輩は我が社会を維持して国を立てんとするに、むしろ無学無術の人と事を共にするも、有智の妖怪と共にするを欲せざる者なり。そもそも我が日本国の独立して既に数千年の社会を維持し、また今後万々歳に伝えんとするは、自《おの》ずからその然《しか》る所以《ゆえん》の元素あるが故なり。即ち社会の公徳にして、その公徳の本《もと》は家の私徳にあり。何者の軽薄児か、敢《あ》えて文明を口に藉《か》りて立国の大本《たいほん》を害せんとするや。我が道徳は数千年に由来してその根本固し。豈《あに》汝らをして容易にこれを動揺せしめんや。天下広し、我輩徳友に乏しからず。常に汝らの挙動に注目して一毫《いちごう》も仮《か》さず、鼓《つづみ》を鳴らしてその罪を責めんと欲する者なり。
 人間|処世《しょせい》の権理《けんり》に公私の区別ありて、先ず私権を全うして然る後、公権の談に及ぶべしとの次第は、かつて『時事新報』の紙上にも記したることなるが(去年十月六日より同十二日までの『時事新報』「私権論」)、そもそもこの私
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