ず。その家人と共に一家に眠食して団欒たる最中にも、時として禁句に触れらるることあれば、その時の不愉快は譬《たと》えんに物なし。無心の小児が父を共にして母を異《こと》にするの理由を問い、隣家には父母二人に限りて吾が家に一父二、三母あるは如何《いかん》などと、不審を起こして詰問に及ぶときは、さすが鉄面皮《てつめんぴ》の乃父《だいふ》も答うるに辞《ことば》なく、ただ黙して冷笑するか顧みて他を言うのほかなし。即ちその身の弱点《よわみ》にして、小児の一言、寸鉄|腸《はらわた》を断つものなり。既にこの弱点あれば常にこれを防禦するの工風《くふう》なかるべからず。その策|如何《いかん》というに、朝夕《ちょうせき》主人の言行を厳重正格にして、家人を視《み》ること他人の如くし、妻妾児孫をして己れに事《つか》うること奴隷の主君におけるが如くならしめ、あたかも一家の至尊には近づくべからず、その忌諱《きき》には触《ふ》るべからず、俗にいえば殿様旦那様の御機嫌は損ずべからずとして、上下尊卑の分《ぶん》を明らかにし、例の内行禁句の一事に至りては、言《こと》の端《は》にもこれをいわずして、家内、目を以てするの家風を養成すること最も必要にして、この一策は取りも直さず内行防禦の胸壁とも称すべきものなり。
 およそ人事に必要なるものは特に求めずして成るの常にして、かの内行不始末の防禦策の如きも、誰《た》が家の主人がいずれの時にこれを発明して実行の先例を示したりなどいうべき跡はなけれども、今日の実際について見れば、主人の内行修まらざる者は、その家風の外面は必ず厳重にして、家族骨肉の間、自然に他人の交際の如く、何か互いに隠して打ち解けざるものあるが如し。あるいはまた、家道|紊《みだ》れて取締なく、親子妻妾|相《あい》互《たが》いに無遠慮|狼藉《ろうぜき》なるが如きものにても、その主人は必ず特に短気無法にして、家人に恐れられざるはなし。即ち事の要用に出でたるものにして、いやしくも家風に厳格を失うか、もしくは主人に短気無法の威力なきにおいては、かの不品行の弱点を襲わるるの恐れあればなり。世間の噂《うわさ》に、某家の主人は内行に頓着せずして家事を軽んじ、あるいは妻妾一処に居て甚だ不都合なれども、内君は貞実にして主公は公平、妾もまた至極《しごく》柔順なる者にして、かつて家に風波を生じたることなしなどいう者あれども、これはただ外見外聞の噂のみ。即ちその風波の生ぜざるは、ただ家法の厳にして主公の威張るがためにして、これを形容していえば、圧制政府の下に騒乱なきものに異ならず。ただ表に破裂せざるのみ。その内実は風波の動揺を互いの胸中に含むものというべし。されば、男尊女卑、主公圧制、家人卑屈の組織は、不品行の家に欠くべからざるの要用にして、日々夜々《にちにちやや》、後進の子女をこの組織の中に養育することなれば、その子女後年の事もまた想い見るべし。我輩の特《こと》に憐れむ所のものなり。天下広し家族多しといえども、一家の夫婦・親子・兄弟姉妹、相互いに親愛恭敬して至情を尽し、陰にも陽にも隠す所なくして互いにその幸福を祈り、無礼の間に敬意を表し、争うが如くにして相《あい》譲《ゆず》り、家の貧富に論なく万年の和気悠々として春の如くなるものは、不品行の家に求むべからざるの幸福なりと知るべし。
 君子の世に処するには、自ら信じ自ら重んずる所のものなかるべからず。即ち自身の他に擢《ぬき》んでて他人の得て我に及ばざる所のものを恃《たの》みにするの謂《いい》にして、あるいは才学の抜群なるあり、あるいは資産の非常なるあり、皆以て身の重きを成して自信自重の資《たすけ》たるべきものなれども、就中《なかんずく》私徳の盛んにしていわゆる屋漏《おくろう》に恥じざるの一義は最も恃《たの》むべきものにして、能《よ》くその徳義を脩《おさ》めて家内に恥ずることなく戸外に憚《はばか》る所なき者は、貧富・才不才に論なく、その身の重きを知って自ら信ぜざるはなし。これを君子の身の位《くらい》という。洋語にいうヂグニチーなるもの、これなり。そもそも人の私徳を脩むる者は、何故《なにゆえ》に自信自重の気象を生じて、自ら天下の高所に居《お》るやと尋ぬるに、能《よ》く難《かた》きを忍んで他人の能《よ》くせざる所を能くするが故なり。例えば読書生が徹夜勉強すれば、その学芸の進歩|如何《いかん》にかかわらず、ただその勉強の一事のみを以て自ら信じ自ら重んずるに足るべし。寺の僧侶が毎朝《まいちょう》早起《そうき》、経《きょう》を誦《しょう》し粗衣粗食して寒暑の苦しみをも憚《はばか》らざれば、その事は直ちに世の利害に関係せざるも、本人の精神は、ただその艱苦《かんく》に当たるのみを以て凡俗を目下に見下すの気位を生ずべし。天下の人皆|財《ざい》を貪《むさぼ》
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