に由《よし》なしという。醜極まりて奇と称すべし。
数百年来の習俗なれば、これを酷に咎《とが》むるは無益の談に似たれども、今の日本は、これ日本国中の日本にあらずして、世界万国に対する文明世界中の日本なれば、いやしくも日本の栄誉を重んずる士人においては、少しく心する所のものなかるべからず。試みに一例を挙げて士人に問わん。君らがいわゆる盛会に例の如く妓を聘《へい》し酒を飲み得々《とくとく》談笑するときは勿論、時としては親戚・朋友・男女団欒たる内宴の席においても、一座少しく興に入るとき、盃盤《はいばん》を狼藉《ろうぜき》ならしむる者は、君らにあらずして誰《た》ぞや。その狼藉はなお可なり、酒席の一興、かえって面白しとして恕《じょ》すべしといえども、座中ややもすれば三々五々の群《ぐん》を成して、その談、花街《かがい》柳巷《りゅうこう》の事に及ぶが如きは聞くに堪えず。そもそもその花柳の談を喋々喃々《ちょうちょうなんなん》するは、何を談じ何を笑い、何を問い何を答うるや。別品《べっぴん》といい色男といい、愉快といい失策というが如き、様々の怪語醜言を交え用いて、いかなる談話を成すや。酔狂喧嘩の殺風景なる、固《もと》より厭《いと》うべしといえども、花柳談の陰醜なるは酔狂の比にあらざるなり。もしも外国人の中に、日本語に通ずること最も巧みにして、談話の意味は勿論、その語気の微妙なる部分までも穎敏《えいびん》に解し得る者あるか、または日本人にして外国語を能《よ》くし、いかなる日本語にてもその真面目《しんめんもく》を外国語に写して毫《ごう》も誤らざる者ありて、君らの談話を一より十に至るまで遺《のこ》る所なく通弁しまた翻訳して、西洋文明国の中人以上、紳士貴女をしてこれを聴かしめ、またその訳文を読ましめたらば、かの士女は果たして如何《いかん》の評を下すべきや。一切の事情をば問わずして、ただ喫驚《きっきょう》の余りに、日本の紳士は下郎なりと放言し去ることならん。君らは斯《かか》る評論を被《こうむ》りて、果たして愧《は》ずる所なきか。
西洋諸国の上流紳士学者の集会に談笑自在なるも、果たして君らの如き醜語を放って憚《はばか》らざるものあるか、我輩の未だ知らざる所なり。けだし文明の社会にはかつて聞かざる所の醜語にてありながら、君らが常にこれを語りて憚る所なきは、日本の事は外人の知らざる所なりとして、強い
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