行|一切《いっさい》西洋流なるにもかかわらず、内行の一点に至りては純然たる旧日本人の本色を失わざるもの多し。けだし社会一般の習俗に制せられて、醜を醜とするの明《めい》を失うたるものにして、あるいはこれを評し有心故造《ゆうしんこぞう》の罪にあらず、無心に悪を犯すの愚というも可ならん。この点より見れば悪《にく》むべきにあらず、むしろ憐れむべきのみ。
前年外国よりある貴賓の来遊したるとき、東京の紳士と称する連中が頻《しき》りに周旋奔走して、礼遇至らざる所なきその饗応の一として、府下の芸妓《げいぎ》を集め、大いに歌舞を催して一覧に供し、来賓も興に入りて満足したりとの事なりしが、実をいえばその芸妓なる者は大抵不倫の女子にして、歌舞の芸を演ずるの傍《かたわ》ら、往々言うべからざる醜行に身を汚《けが》し、ほとんど娼妓《しょうぎ》に等しき輩なれば、固《もと》より貴人の前に面すべき身分にあらず。西洋諸国の上流社会にてこの種の女子を賤《いや》しむは勿論、我が日本国においても、仮に封建時代の諸侯を饗するに今日の如き芸妓の歌舞を以てせんとしたらば、必ず不都合を訴うることならん。されば、かの貴賓もその芸妓の何ものたるを知らざりしこそ幸いなれ、もしも内実の事情を聞くこともありしならんには、饗応の満足に引替えて、失敬無状を憤りしことなるべし。これとてもさきの紳士連中は無礼と知りて行うたるにあらず、その平生において、男女品行上のことをば至って手軽に心得、ただ芸妓の容姿を悦《よろこ》び、美なること花の如しなどとて、徳義上の死物たる醜行不倫の女子も、潔清上品なる良家の令嬢も大同小異の観をなして、さては右の如き大間違いに陥りたるものならんのみ。我輩は直ちにその人を咎《とが》めずして、我が習俗の不取締にして人心の穎敏《えいびん》ならざるを歎息する者なり。これを要するに、今の紳士も学者も不学者も、全体の言行の高尚なるにかかわらず、品行の一点においては、不釣合に下等なる者多くして、俗言これを評すれば、御座《ござ》に出されぬ下郎《げろう》と称して可なるが如し。花柳《かりゅう》の間に奔々《ほんぽん》して青楼《せいろう》の酒に酔い、別荘|妾宅《しょうたく》の会宴に出入《でいり》の芸妓を召すが如きは通常の人事にして、甚だしきは大切なる用談も、酒を飲み妓《ぎ》に戯るるの傍《かたわ》らにあらざれば、談者相互の歓心を結ぶ
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