外国人の見る目|如何《いかん》などとて、その来訪のときに家内の体裁を取り繕い、あるいは外にして都鄙《とひ》の外観を飾り、または交際の法に華美を装うが如き、誠に無益の沙汰にして、軽侮を来《きた》す所以《ゆえん》の大本《おおもと》をば擱《さしお》き、徒《ただ》に末に走りて労するものというべきのみ。これを喩《たと》えば、大廈《たいか》高楼の盛宴に山海の珍味を列《つら》ね、酒池肉林《しゅちにくりん》の豪、糸竹《しちく》管絃の興、善尽し美尽して客を饗応するその中に、主人は独り袒裼《たんせき》裸体なるが如し。客たる者は礼の厚きを以てこの家に重きを置くべきや。饗礼《きょうれい》は鄭重《ていちょう》にして謝すべきに似たれども、何分にも主人の身こそ気の毒なる有様なれば、賓主《ひんしゅ》の礼儀において陽に発言せざるも、陰に冷笑して軽侮の念を生ずることならん。労して功なく費やして益なきものというべし。されば今我が日本国が文明の諸外国に対して、その交際の公私に論なく、ややもすれば意の如くならざるは、原因のある所、一にして足らずといえども、我が男子が徳義上に軽侮を蒙《こうむ》るの一事は、その原因中の大箇条《だいかじょう》なるが故に、いやしくもこれに心付きたる者は、片時《へんじ》も猶予せずしてその過ちを改めざるべからず。今の世界に居て人生誰か自国を愛せざる者あらんや。国のためとあれば荊《いばら》に坐し胆《たん》を嘗《な》むるも憚《はばか》らざるは人情の常なり。内行を慎むが如き、非常の辛苦にあらず。在昔《ざいせき》はこれを戒むるの趣意、単にその人の一身にありしことなれども、今は則《すなわ》ち一国の栄辱に関して、更に重大の事とはなりたり。身を思い国を思う者は、深く自ら省みる所なかるべからざるなり。
「日本男子論」の一編、その言《こと》既に長く、真正面より男子の品行を責めて一毫《いちごう》も仮《か》さず、水も洩《も》らさぬほどに論じ詰めたることなれば、世間無数|疵《きず》持つ身の男子はあたかも弱点を襲われて遁《のが》るるに路《みち》なく、ただその心中に謂《おもえ》らく、内行の不取締、醜といわるれば醜なれども、詐偽《さぎ》・破廉恥《はれんち》にはあらず、また我が一身の有様は自《おの》ずから人に語るべからざる都合もあることなるに、斯《か》くまでに酷言《こくげん》せずともなどといささか不平もありながら、さ
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