即ち我が国衣食住の有様は云々《しかじか》にして習俗宗教は斯《かく》の如しなどと、これを示しこれを語りて、時としてはことさらにその外面を装《よそお》うて体裁を張るが如き、これなり。例えば今日の実際において、吾人の家に外国人の来《きた》るあれば、先ずこれを珍客として様々に待遇の備えを設け、とにかくに見苦しからぬようにと心配するは人情の常なり。また、これを大にして都鄙《とひ》の道路橋梁、公共の建築等に、時としては実用のほかに外見を飾るものなきにあらず。あるいは近来東京などにて交際のいよいよ盛んにして、遂に豪奢《ごうしゃ》分外の譏《そし》りを得るまでに至りしも、幾分か外国人に対して体裁云々の意味を含むことならん。一概にこれを評すれば無益の虚飾なるに似たれども、他人をして我が真実を知らしむるは甚だ易《やす》からざるが故に、先ず虚《きょ》より導きて実《じつ》に入らしむる方便なりといえば、強《あなが》ち咎《とが》むべきにもあらず。その虚実、要不要の論はしばらく擱《さしお》き、我が日本国人が外国交際を重んじてこれを等閑《とうかん》に附せず、我が力のあらん限りを尽して、以て自国の体面を張らんとするの精神は誠に明白にして、その愛国の衷情《ちゅうじょう》、実際の事跡に現われたるものというべし。
 然るに、我輩が年来の所見を以ていかように判断せんとするも説《せつ》を得ざるその次第は、我が国人が斯《か》くまでに力を尽して外交を重んじ、ただに事実に国の富強文明を謀《はか》るのみならず、外面の体裁虚飾に至るまでも、専《もっぱ》ら西洋流の文明開化に倣《なら》わんとして怠ることなく、これを欣慕《きんぼ》して二念なき精神にてありながら、独りその内行《ないこう》の問題に至りては、全く開明の主義を度外に放棄して、純然たる亜細亜《アジア》洲の旧慣に従い、居然《きょぜん》自得《じとく》して眼中また西洋なきが如くなるの一事なり。元来西洋の人は我が日本の事情に暗くして、ややもすれば不都合千万なる謬見《びゅうけん》を抱く者少なからず。就中《なかんずく》彼らは耶蘇《ヤソ》教の人なるが故に、己れの宗旨に同じからざる者を見れば、千百の吟味|詮索《せんさく》は差置《さしお》き、一概にこれを外教人《がいきょうじん》と称して、何となく嫌悪の情を含み、これがために双方の交情を妨ぐること多きは、誠に残念なる次第にして、我輩は常にそ
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