むることなし。けだし潔清無垢の極はかえって無量の寛大となり、浮世の百汚穢《ひゃくおわい》を容《い》れて妨げなきものならんのみ。これを、かの世間の醜行男子が、社会の陰処《いんしょ》に独り醜を恣《ほしいまま》にするにあらざれば同類一場の交際を開き、豪遊と名づけ愉快と称し、沈湎《ちんめん》冒色《ぼうしょく》勝手次第に飛揚して得々《とくとく》たるも、不幸にして君子の耳目に触るるときは、疵《きず》持つ身の忽《たちま》ち萎縮して顔色を失い、人の後《しりえ》に瞠若《どうじゃく》として卑屈|慚愧《ざんき》の状を呈すること、日光に当てられたる土鼠《もぐら》の如くなるものに比すれば、また同日の論にあらざるなり。
近来世間にいわゆる文明開化の進歩と共に学術技芸もまた進歩して、後進の社会に人物を出《いだ》し、また故老の部分においても随分開明説を悦《よろこ》んで、その主義を事に施さんとする者あるは祝すべきに似たれども、開明の進歩と共に内行の不取締もまた同時に進歩し、この輩が不文《ふぶん》野蛮と称して常に愍笑《びんしょう》する所の封建時代にありても、決して許されざりし不品行を今日に犯し、恬《てん》として愧《は》ずるを知らざるものなきにあらず。文明進歩して罪を野蛮人に得る者というべし。学術技芸|果《は》たして何の効あるべきや。我輩は我が社会を維持して国を立てんとするに、むしろ無学無術の人と事を共にするも、有智の妖怪と共にするを欲せざる者なり。そもそも我が日本国の独立して既に数千年の社会を維持し、また今後万々歳に伝えんとするは、自《おの》ずからその然《しか》る所以《ゆえん》の元素あるが故なり。即ち社会の公徳にして、その公徳の本《もと》は家の私徳にあり。何者の軽薄児か、敢《あ》えて文明を口に藉《か》りて立国の大本《たいほん》を害せんとするや。我が道徳は数千年に由来してその根本固し。豈《あに》汝らをして容易にこれを動揺せしめんや。天下広し、我輩徳友に乏しからず。常に汝らの挙動に注目して一毫《いちごう》も仮《か》さず、鼓《つづみ》を鳴らしてその罪を責めんと欲する者なり。
人間|処世《しょせい》の権理《けんり》に公私の区別ありて、先ず私権を全うして然る後、公権の談に及ぶべしとの次第は、かつて『時事新報』の紙上にも記したることなるが(去年十月六日より同十二日までの『時事新報』「私権論」)、そもそもこの私
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