これはただ外見外聞の噂のみ。即ちその風波の生ぜざるは、ただ家法の厳にして主公の威張るがためにして、これを形容していえば、圧制政府の下に騒乱なきものに異ならず。ただ表に破裂せざるのみ。その内実は風波の動揺を互いの胸中に含むものというべし。されば、男尊女卑、主公圧制、家人卑屈の組織は、不品行の家に欠くべからざるの要用にして、日々夜々《にちにちやや》、後進の子女をこの組織の中に養育することなれば、その子女後年の事もまた想い見るべし。我輩の特《こと》に憐れむ所のものなり。天下広し家族多しといえども、一家の夫婦・親子・兄弟姉妹、相互いに親愛恭敬して至情を尽し、陰にも陽にも隠す所なくして互いにその幸福を祈り、無礼の間に敬意を表し、争うが如くにして相《あい》譲《ゆず》り、家の貧富に論なく万年の和気悠々として春の如くなるものは、不品行の家に求むべからざるの幸福なりと知るべし。
 君子の世に処するには、自ら信じ自ら重んずる所のものなかるべからず。即ち自身の他に擢《ぬき》んでて他人の得て我に及ばざる所のものを恃《たの》みにするの謂《いい》にして、あるいは才学の抜群なるあり、あるいは資産の非常なるあり、皆以て身の重きを成して自信自重の資《たすけ》たるべきものなれども、就中《なかんずく》私徳の盛んにしていわゆる屋漏《おくろう》に恥じざるの一義は最も恃《たの》むべきものにして、能《よ》くその徳義を脩《おさ》めて家内に恥ずることなく戸外に憚《はばか》る所なき者は、貧富・才不才に論なく、その身の重きを知って自ら信ぜざるはなし。これを君子の身の位《くらい》という。洋語にいうヂグニチーなるもの、これなり。そもそも人の私徳を脩むる者は、何故《なにゆえ》に自信自重の気象を生じて、自ら天下の高所に居《お》るやと尋ぬるに、能《よ》く難《かた》きを忍んで他人の能《よ》くせざる所を能くするが故なり。例えば読書生が徹夜勉強すれば、その学芸の進歩|如何《いかん》にかかわらず、ただその勉強の一事のみを以て自ら信じ自ら重んずるに足るべし。寺の僧侶が毎朝《まいちょう》早起《そうき》、経《きょう》を誦《しょう》し粗衣粗食して寒暑の苦しみをも憚《はばか》らざれば、その事は直ちに世の利害に関係せざるも、本人の精神は、ただその艱苦《かんく》に当たるのみを以て凡俗を目下に見下すの気位を生ずべし。天下の人皆|財《ざい》を貪《むさぼ》
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