なし。いわんや天下億万の後進生に向ってこれを責むるにおいてをや。労して功なきのみならず、かえってこれを激するの禍《わざわい》なきを期すべからざるなり。
 我が輩は前節において、教育改良の意見を述べ、その主とするところは、天下の公議輿論にしたがいてこれを導き、自然にその行くところに行かしめ、その止まるところに止まらしめ、公議輿論とともに順に帰せしむること、流《ながれ》にしたがって水を治むるが如くならしめんことを欲する者なりと記したれども、その言少しく漠然たるがゆえに、今ここに一、二の事実を証してその意を明らかにせん。元来、我が輩の眼をもって周公孔子の教を見れば、この教の働をもって人心を動かすこと、もとより少なからずといえども、その働は決して無限のものに非ずして、働の達するところに達すれば、毫《ごう》も運動をたくましゅうすること能わざるものなりと信ず。すなわちその極点は、この教を奉ずる国民の公議輿論に適すべき部分にかぎりて働を呈し、それ以上においては輿論のために制せらるるを常とす。
 たとえば支那と日本の習慣の殊《こと》なるもの多し。就中《なかんずく》、周の封建の時代と我が徳川政府封建の時
前へ 次へ
全24ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
福沢 諭吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング