、この間にひとりするを得ざるは、伝染病の地方にいて、ひとりこれを免かるるの術なきが如し。独立の品行、まことに嘉《よ》みすべしといえども、おのずからその限りあるものにして、限界を超えて独立せんとするも、人間|生々《せいせい》の中にありて決して行わるべきことに非ず。
たとえば言語の如し。一地方にありて独立独行、百事他人に殊なりと称する人にても、その言語には方言を用い、壁を隔ててこれを聞くも、某地方の人たるを知るべし。今この方言は誰れに学びたりやと尋ぬるに、これを教えたる者なし。教うる者なくしてこれを知る。すなわち地方の空気に学びたるものと言わざるをえず。あるいは空気の力に迫られたるものというも可なり。ただに方言のみならず、衣服、飲食の品類より、家屋・庭園・装飾・玩弄の物にいたるまでも、一時一世の流行にほかなるを得ず。流行のものを衣服し、流行のものを飲食し、流行の家屋におり、流行の物を弄《もてあそ》ぶ。
この点より見れば、人はあたかも社会の奴隷にして、その圧制を蒙り、毫《ごう》も自由を得ざるものにして、いかなる有力の士人にても、古今世界にこの圧制を免かれたる者あるを聞かざるなり。有形の物、皆然り。然らばすなわち無形の智徳にして、ひとり社会の圧制を免かるるの理あるべからず。教えずして知るの智あり、学ばずして得るの徳あり。ともに流行の勢にしたがいてその範囲を脱せず。社会はあたかも智徳の大教場というも可なり。この教場の中にありて区々の学校を見れば、如何なる学制あるも、如何なる教則あるも、その教育は、ただわずかに人心の一部分を左右するに足るべしとのことは、必ずしも知識をまちて然る後に知るべき事柄に非ざるなり。
方今、世に教育論者あり。その言にいわく、近来我が国の子弟は、その品行ようやく軽薄におもむき、父兄の言を用いず、長老の警《いましめ》をかえりみず、はなはだしきは弱冠《じゃっかん》の身をもって国家の政治を談じ、ややもすれば上《かみ》を犯すの気風あるが如し。ひっきょう、学校の教育不完全にして徳育を忘れたるの罪なりとて、専ら道徳の旨を奨励するその方便として、周公孔子の道を説き、漢土聖人の教をもって徳育の根本に立てて、一切の人事を制御せんとするものの如し。
我が輩は論者の言を聞き、その憂うるところははなはだもっともなりと思えども、この憂いを救うの方便にいたりては毫《ごう》も感
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