空気、乾湿の度を失い、太陽の光熱、物にさえぎられ、地性、瘠《や》せて津液足らざる者へは、たとい肥料を施すも功を奏すること少なきのみならず、まったく無効なるものあり。
 教育もまたかくの如し。人の智徳は教育によりておおいに発達すといえども、ただその発達を助くるのみにして、その智徳の根本を資《と》るところは、祖先遺伝の能力と、その生育の家風と、その社会の公議|輿論《よろん》とにあり。蝦夷人《えぞびと》の子を養うて何ほどに教育するも、その子一代にては、とても第一流の大学者たるべからず。源家《げんけ》八幡太郎の子孫に武人の夥《おびただ》しきも、能力遺伝の実証として見るべし。また、武家の子を商人の家に貰うて養えば、おのずから町人根性となり、商家の子を文人の家に養えば、おのずから文に志す。幼少の時より手につけたる者なれば、血統に非ざるも自然に養父母の気象を承《うく》るは、あまねく人の知る所にして、家風の人心を変化すること有力なるものというべし。
 また、戦国の世にはすべて武人多くして、出家の僧侶にいたるまでも干戈《かんか》を事としたるは、叡山《えいざん》・三井寺《みいでら》等の古史に徴して知るべし。社会の公議輿論、すなわち一世の気風は、よく仏門慈善の智識をして、殺人戦闘の悪業《あくごう》をなさしめたるものなり。右はいずれも、人生の智徳を発達せしめ退歩せしめ、また変化せしむるの原因にして、その力はかえって学校の教育に勝《まさ》るものなり。学育もとより軽々《けいけい》看過すべからずといえども、古今の教育家が漫《みだり》に多《た》を予期して、あるいは人の子を学校に入れてこれを育すれば、自由自在に期するところの人物を陶冶《とうや》し出だすべしと思うが如きは、妄想《もうそう》のはなはなだしきものにして、その妄漫《もうまん》なるは、空気・太陽・土壌の如何を問わず、ただ肥料の一品に依頼して草木の長茂を期するに等しきのみ。
 俚諺《りげん》にいわく、「門前の小僧習わぬ経を読む」と。けだし寺院のかたわらに遊戯する小童輩は、自然に仏法に慣れてその臭気を帯ぶるとの義ならん。すなわち仏《ぶつ》の気風に制しらるるものなり。仏の風にあたれば仏に化し、儒の風にあたれば儒に化す。周囲の空気に感じて一般の公議輿論に化せらるるの勢は、これを留《とど》めんとして駐《とど》むべからず。いかなる独主独行の士人といえども
前へ 次へ
全12ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
福沢 諭吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング