等閑にす可らず。但し今の世間に女学と言えば、専ら古き和文を学び三十一文字《みそひともじ》の歌を詠じて能事《のうじ》終《おわ》るとする者なきに非ず。古文古歌固より高尚にして妙味ある可しと雖《いえど》も、之を弄ぶは唯是れ一種の行楽事にして、直に取て以て人生居家の実際に利用す可らず。之を喩えば音楽、茶の湯、挿花の風流を台所に試みて無益なるが如し。然《し》かのみならず古文古歌の故事は往々浮華に流れて物理の思想に乏しく、言葉は優美にして其実は婬風に逸《いっ》するもの多し。例えば世の中に普通なる彼の百人一首の如き、夢中に読んで夢中に聞けばこそ年少女子の為めに無害なれども、若しも一々これを解釈して詳《つまびらか》に今日の通俗文に翻訳したらば、婬猥《いんわい》不潔、聞くに堪えざること俗間の都々一《どどいつ》に等しきものある可し。唯都々一は三味線に撥《ばち》を打付《ぶちつ》けてコリャサイなど囃立《はやした》つるが故に野鄙《やひ》に聞ゆれども、三十一文字も三味線に合してコリャサイの調子に唄えば矢張り野鄙なる可し。古歌必ずしも崇拝するに足らず。都々一も然《しか》り。長唄、清元も然り。都《すべ》て是れ坊主の読
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