《じご》また重ねてこの僥倖を固くしたるものあり。けだしそのこれを固くしたるものとは市学校の設立、すなわちこれなり。明治四年廃藩のころ、中津の旧官員と東京の慶応義塾と商議の上、旧知事の家禄を分《わか》ち旧藩の積金《つみきん》と合《がっ》して洋学の資本となして、中津の旧城下に学校を立ててこれを市学校と名《なづ》けたり。学校の規則もとより門閥《もんばつ》貴賤《きせん》を問わずと、表向《おもてむき》の名に唱《となう》るのみならず事実にこの趣意を貫《つらね》き、設立のその日より釐毫《りごう》も仮《か》すところなくして、あたかも封建門閥の残夢中《ざんむちゅう》に純然たる四民同権の一新世界を開きたるがごとし。
けだし慶応義塾の社員は中津の旧藩士族に出《いず》る者多しといえども、従来少しもその藩政に嘴《くちばし》を入れず、旧藩地に何等《なんら》の事変あるも恬《てん》として呉越《ごえつ》の観《かん》をなしたる者なれば、往々《おうおう》誤《あやまっ》て薄情《はくじょう》の譏《そしり》は受《うく》るも、藩の事務を妨《さまた》げその何《いず》れの種族に党《とう》するなどと評せられたることなし。故にこの市学校
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