れども、ここにはただ事実の例を示さんがために、その稀に有る者の数を比較したるのみ。)
 かつ限《かぎり》ある士族の内にて互に縁組《えんぐみ》することなれば、縁に縁を重ねて、二、三百年以来今日に至《いたり》ては、士族はただ同藩の好《よしみ》あるのみならず、現に骨肉の親族にして、その好情の篤《あつ》きはもとより論を俟《ま》たず。然《しか》るに今日、試《こころみ》に士族の系図を開《ひらき》てこれを見れば、古来上下の両等が父祖を共にしたる者なし、祖先の口碑《こうひ》を共にしたる者なし。恰《あたか》も一藩中に人種の異《こと》なる者というも可《か》なり。故にこの両等は藩を同《おなじゅ》うし君を共にするの交誼《こうぎ》ありて骨肉の親情なき者なり。(骨肉の縁を異にす)
 第三、上等士族の内にも家禄にはもとより大なる差ありて、大臣《たいしん》は千石、二千石、なおこれより以上なる者もあり。上等の最下《さいか》、小姓組、医師のごときは、十人扶持《じゅうにんぶち》より少なき者もあれども、これを概《がい》するに百石二百石或は二百五十石と唱《とな》えて、正味《しょうみ》二十二、三石より四十石|乃至《ないし》五、六十石の者最も多し。藩にて要路に立つ役人は、多くはこの百石[#ここから割り注]名目のみ[#ここで割り注終わり]以上の家に限るを例とす。藩にて正味二、三十石以上の米あれば、尋常《じんじょう》の家族にて衣食に差支《さしつかえ》あることなく、子弟にも相当の教育を施《ほどこ》すべし。
 これに反して下等士族は十五石|三人扶持《さんにんぶち》、十三石|二人扶持《ににんぶち》、或は十石|一人扶持《いちにんぶち》もあり、なお下《くだっ》て金給の者もあり。中以上のところにて正味七、八石|乃至《ないし》十餘石に上《のぼ》らず。夫婦|暮《ぐら》しなれば格別《かくべつ》、もしも三、五人の子供または老親あれば、歳入《さいにゅう》を以て衣食を給するに足《た》らず。故に家内《かない》力役《りきえき》に堪《たう》る者は男女を問わず、或は手細工《てざいく》或は紡績《ぼうせき》等の稼《かせぎ》を以て辛《かろ》うじて生計《せいけい》を為《な》すのみ。名は内職なれどもその実《じつ》は内職を本業として、かえって藩の公務を内職にする者なれば、純然たる士族に非ず、或はこれを一種の職人というも可《か》なり。生計を求むるに忙《いそが》わしく、子弟の教育を顧《かえりみ》るに遑《いとま》あらず。故に下等士族は文学その他|高尚《こうしょう》の教に乏《とぼ》しくして自《おのず》から賤《いや》しき商工の風あり。(貧富を異にす)
 第四、上等の士族は衣食に乏《とぼ》しからざるを以て文武の芸を学ぶに余暇《よか》あり。或は経史《けいし》を読み或は兵書を講じ、騎馬《きば》槍剣《そうけん》、いずれもその時代に高尚《こうしょう》と名《なづく》る学芸に従事するが故に、自《おのず》から品行も高尚にして賤《いや》しからず、士君子《しくんし》として風致《ふうち》の観《み》るべきもの多し。下等士族は則《すなわ》ち然《しか》らず。役前《やくまえ》の外《ほか》、馬に乗る者とては一人《ひとり》もなく、内職の傍《かたわら》に少しく武芸《ぶげい》を勉《つと》め、文学は四書五経《ししょごきょう》歟《か》、なお進《すすみ》て蒙求《もうぎゅう》、左伝《さでん》の一、二巻に終る者多し。特にその勉強するところのものは算筆に在《あり》て、この技芸に至《いたっ》ては上等の企《くわだ》て及ぶところに非ず。蓋《けだ》しその由縁《ゆえん》は、下等士族が、やや家産《かさん》の豊《ゆたか》なるを得て、仲間《なかま》の栄誉を取るべき路はただ小吏たるの一事にして、この吏人《りじん》たらんには必ず算筆の技芸を要するが故に、恰《あたか》も毎家《まいか》教育の風を成し、いかなる貧小士族にてもこの技芸を勉《つと》めざる者なし。
 今を以て考うれば、算筆の芸もとより賤《いや》しむべきに非ざれども、当時封建士族の世界にこれを賤しむの風なれば、これに従事する者は自《おのず》からその品行も賤しくして、士君子の仲間に歯《よわい》せられざる者のごとし。譬《たと》えば上等士族は習字にも唐様《からよう》を学び、下等士族は御家流《おいえりゅう》を書き、世上一般の気風にてこれを評すれば、字の巧拙《こうせつ》を問わずして御家流をば俗様《ぞくよう》として賤《いや》しみ、これを書く者をも俗吏《ぞくり》俗物《ぞくぶつ》として賤しむの勢《いきおい》を成せり。(教育を異にす)
 第五、上士族の内にも小禄の貧者なきに非ざれども、概《がい》してこれを見れば、その活計は入《いる》に心配なくして、ただ出《いずる》の一部に心を用《もちう》るのみ。下士族は出入《しゅつにゅう》共に心に関して身を労する者なれば、その理
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